レンズ越しに、愛を込めて
2025/12/30
朝、目が覚めて最初にすることは、枕元に置いた「それ」を探すことだ。
指先で冷たいプラスチックの感触を確かめ、耳に掛け、鼻筋に乗せる。その瞬間、私の世界は完成する。
メガネをかけていない時の私の世界は、まるで印象派の絵画のようだ。輪郭は溶け合い、光はただの丸い塊となって空間に浮かんでいる。時計の針も、カレンダーの数字も、窓の外で揺れる街路樹の葉も、すべてが曖昧な「気配」としてしか存在しない。
この、どこか優しくて、けれど少しだけ心細い「ぼやけた世界」から、私は毎朝、メガネという名の装置を通って「現実」へと帰還する。
カチッ、という小さな音が頭の中で鳴るような気がする。焦点が合い、視界のピントが鮮明になる。それは単に「見えるようになる」という機能的な変化ではない。私にとってメガネをかけることは、社会という戦場へ向かうための武装であり、あるいは、この世界と自分を繋ぎ止めるための、ささやかな儀式なのだ。
初めてのレンズ、解像度の上がった世界
私が初めてメガネを手にしたのは、小学五年生の秋だった。
黒板の文字がかすれ、一番前の席に座っても先生のチョークの動きが追えなくなった。眼科の暗い部屋で、あの赤い気球が浮かぶ不思議な機械を覗き込み、いくつかの検査を終えた後、処方箋を手に眼鏡店へ向かった。
選んだのは、当時の私が「大人っぽい」と感じた、落ち着いたネイビーの細いフレームだった。
数日後、出来上がったメガネを店員さんに渡され、初めて顔に乗せた時の衝撃を、私は一生忘れないだろう。
店を出た瞬間、私は立ちすくんだ。
「木に、葉っぱがある……」
そんな当たり前のことに、私は言葉を失った。それまで緑色の巨大な塊にしか見えていなかった街路樹が、実は何千枚、何万枚という個別の葉の集合体であることを、私は初めて知ったのだ。遠くの看板の小さな文字、道を歩く人の表情、アスファルトの細かなひび割れ。
世界は、こんなにも残酷なほどに細部で満ちていたのか。
その夜、空を見上げてさらに驚いた。
ぼんやりとした光のシミだと思っていた星が、針の先で突いたような鋭い光の点となって夜空に刺さっていた。私は嬉しくて、同時に少しだけ怖くなった。こんなにたくさんの情報を受け取って、私の脳はパンクしてしまわないだろうか。
それまでの私は、ぼやけた世界の中で、見えない部分を想像力で補って生きていた。けれど、メガネはその余地を奪い、私に「ありのままの現実」を突きつけてきた。それが、私とメガネの、長くて深い付き合いの始まりだった。
盾としてのフレーム、隠された視線
思春期に入ると、メガネは単なる視力矯正器具以上の意味を持つようになった。
コンタクトレンズという選択肢も提示されたが、私は頑なにメガネを使い続けた。なぜなら、メガネのフレームは私にとって、自分と外界を隔てる「盾」だったからだ。
人見知りで、他人の視線に過敏だった当時の私にとって、レンズという薄い壁があるだけで、どこか守られているような安心感があった。相手の目を見ることが苦手でも、メガネ越しなら不思議と視線を合わせることができた。フレームの縁が作る境界線が、私の心のプライベートゾーンを守ってくれているような気がしたのだ。
また、メガネは「自分を変えるための道具」でもあった。
勉強に集中したい時はカチッとしたスクエア型、少し柔らかい自分を見せたい時は丸みのあるボストン型。鏡の中の自分は、フレームひとつで全く違う人間になった。
失恋した時、心機一転して新しいフレームを買いに行ったこともある。古いメガネをケースにしまうことは、そのメガネと共に過ごした思い出や、執着を閉じ込めることと同義だった。新しいメガネをかければ、新しい私として、新しい景色を見ることができる。そんな、おまじないのような効能が、メガネにはある。
レンズに刻まれた、日々の痕跡
メガネというものは、実に手のかかる相棒だ。
ラーメンを啜れば真っ白に曇り、雨が降れば水滴で視界が遮られる。ふとした拍子に指紋がつき、冬の冷えた部屋に入ればまた曇る。マスクが日常になった昨今では、自分の吐息で前が見えなくなることもしばしばだ。
けれど、その不便ささえも、どこか愛おしく感じることがある。
専用のクロスでレンズを拭く時間。円を描くように優しく、丁寧に。少しずつ汚れが落ち、透明な世界が戻ってくる過程は、乱れた心を整える瞑想の時間に似ている。
「ああ、今日も一日、いろんなものを見てきたな」
そう思いながら、一日の終わりにメガネを磨く。レンズをよく見ると、小さな傷がついていることがある。いつどこでつけたのかも思い出せないような、微細な傷。それは私がこの世界で生きてきた、確かな証拠だ。
メガネは、持ち主の生活を最も近くで見守っている。
感動して流した涙を受け止めるのも、深夜まで机に向かって書き物をしている時の重みを感じるのも、大切な人と見つめ合った瞬間の光を透過させるのも、すべてはこの二枚のガラス……いや、今は多くがプラスチックだが、そのレンズなのだ。
私の視線の先には、常にこのレンズがある。それは私の一部であり、同時に私を客観的に映し出す鏡のようでもある。
メガネを外す瞬間、無防備な私
私にとって、メガネを外すという行為は、特別な意味を持つ。
それは「武装解除」だ。
家に帰り、誰にも会う予定がない時。あるいは、心から信頼できる人の前で。
メガネを外した瞬間、世界の解像度は一気に下がる。鮮明だった輪郭は溶け、光は再び柔らかい塊へと戻る。それと同時に、自分を律していた緊張の糸も、ふっと緩む。
他人の表情が見えなくなることは、時に救いになる。
誰かが自分をどう見ているか、どんな顔をしているか。それを知らなくていい時間は、とても静かで平和だ。ぼやけた視界の中では、醜いものも、尖ったものも、すべてが優しく中和される。
「今日はもう、これ以上何も見なくていいよ」
体の一部であるメガネを外すことは、自分を社会的な役割から解放してあげること。裸眼の私は、どこまでも無防備で、ありのままの自分に戻る。
だからこそ、誰かに「メガネを外してみて」と言われると、少しだけドキッとする。
それは、私の心の奥底を覗き込もうとされているような、あるいは、私の柔らかな部分を差し出さなければならないような、密やかな緊張感を伴うからだ。
メガネを外した時の、焦点の合わない、少し心許ない私の瞳。それを見せることは、言葉以上に饒舌な、信頼の証なのかもしれない。
老いとピント、変わりゆく景色
月日が流れ、私も「老眼」という言葉が他人事ではなくなってきた。
遠くは相変わらずメガネがないと見えないが、今度は近くを見る際にも苦労するようになった。ピントが合う範囲が、少しずつ狭まっていく。それは抗いようのない、生物としての変化だ。
かつて、初めてメガネをかけた時に感じた「世界の鋭さ」は、今では少し落ち着き、穏やかなものに変わりつつある。
若い頃は、何でもはっきりと、正しく、隅々まで見ようとしていた。白黒をつけ、正解を求め、見落としがないようにと神経を尖らせていた。けれど今は、少しぐらいぼやけていてもいいじゃないか、と思うこともある。
見えすぎることは、時に残酷だ。見なくていい欠点や、知らなくていい真実までを、レンズは容赦なく映し出してしまうから。
最近、累進多焦点レンズ(いわゆる遠近両用)というものを使い始めた。
技術の進歩は素晴らしく、一枚のレンズの中に「遠くを見る自分」と「近くを見る自分」が共存している。視線を少し動かすだけで、景色は滑らかに切り替わる。
それはまるで、人生のフェーズを自由に行き来しているような感覚だ。若かりし日の、遠くだけを見ていた情熱。そして今の、身近な幸せや小さな文字に目を向ける落ち着き。
メガネは、私の変化に寄り添い、常に最適な視界を与えてくれる。
結び:レンズ越しの、愛おしい世界
ふと、もしこの世界からメガネが消えたら、と想像してみる。
私の人生は、どれほど不自由で、どれほど寂しいものになるだろうか。
愛する人の顔も、道端に咲く名もなき花も、夕焼けに染まる雲のグラデーションも、私はその本当の姿を知ることができないまま、ぼんやりとした霧の中を歩き続けることになる。
メガネは、私にとって単なる「道具」ではない。
それは、世界を愛するための「窓」だ。
この二枚のレンズがあるからこそ、私は世界の美しさを発見し、細部を慈しみ、誰かの瞳の輝きに気づくことができる。
たとえ目が衰えても、レンズの度数を変え、フレームを新調し、私はこれからも「見る」ことを諦めないだろう。
今、机に置かれたメガネを手に取り、いつものように顔に乗せる。
鼻筋にかかる、わずかな重み。
こめかみを優しく押さえる、テンプルの感触。
そして、目の前に広がる、鮮やかで、残酷で、けれどたまらなく愛おしい世界。
私は今日も、このレンズ越しに、世界と対話する。
ぼやけた明日を、少しでもはっきりと、優しく捉えるために。
カチッ、とピントが合う。
さあ、新しい景色を見に行こう。
「レンズ越しに、愛を込めて」
私はそっと呟き、新しく磨き上げたメガネをかけ、一歩外へと踏み出した。
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