挨拶

こんにちは

串焼処 串兵衛



店主 佐藤直武です

焼鳥バカです
 
焼鳥バカの始まりは小学校低学年くらいだったでしょうか。
 
私の生まれ育った青森県八戸市湊町は昭和40年代当時漁師町として大変な賑わいでした。
小さな飲食店がたくさん軒を連ね屈強な男たちが毎日のように飲みに繰り出し、まるでお祭りのようでした。
 
そんな飲み屋街の一角に叔母が10人も入ればいっぱいの小さな焼鳥店を開業させました。
 
近くの銭湯の帰り道、親父に連れられて入店すると立ち上る湯気と煙、そして甘じょっぱい焼鳥のタレが焦げるなんとも言えないあの香ばしい匂い、そこはもう男たちのオアシスかのようで小学生の坊主はその豪快な飲みっぷりと食べっぷりに開いた口が塞がらないほどぶったまげていると、そこにお待ちかねの焼きたての焼鳥が目の前に運ばれてきました。

熱々の焼鳥をアッチアッチと頬張った瞬間、旨い!一瞬で私は焼鳥の虜になったのです!

当時の私には焼鳥はご馳走でした!
そして大人が食べる物だと。

市の中心街に出掛ける時もお出掛け用の服を着、滅多に入らないレストランでの食事はいつも決まってオムライス。

焼鳥屋という、いわゆる飲み屋には子供はあまり行くことがなかったように思います。

とにかく、その日食べた焼鳥の旨さといったら格別で幼なかった私の脳の奥底に悪魔のように住み着いたのです笑


板前修業

それから10数年後、ショーケンのドラマ「前略おふくろさん」の板前姿に憧れて富山県に料理修業に出た私の疲れた体と心を癒してくれたのはやきとり「秋吉」さんでした。

スタッフの元気の良さ、テンポのいい会話、そして何と言ってもカウンターには提供された焼鳥が冷めないように温かい鉄板が張り巡らされいてそのお店の気遣いに一気にファンになり、板前修業に出て将来は本格的な日本料理のお店を持ちたいと思っていた私でしたが、いつも元気をくれる秋吉さんのような焼鳥屋の方がいいなぁといつしか思うようになりました。


花の都東京

富山県での修業を3年で切り上げ、花の東京は神田に戻りより一層料理修業に励んでた25歳、富山県での修業時代、富山第一ホテルで知り合った2歳下の藤城紀子という女性と2年間の遠距離恋愛の末、結婚しました

新婚生活は埼玉県川口市、駅から徒歩30分の家賃6万円の新築アパートでスタート。
時はバブル経済絶頂期、職人の若い衆達のお給料もドンドンあがっていき巷ではワンレンボディコンの女子たちがお立ち台の上で腰をくねらせ扇子を振り回し男どもの視線を釘付けにしておりました。

そして転機が訪れたのは結婚3年目の春、何気に入った本屋さんで手に取った一冊の本、題名は「金のない人こそ商売をヤレ!」という何ともおかしな題名のその本はナント!焼鳥屋開業の話が書かれたとても面白い本だったのです。

あまりに面白くて何回も読んだその一節に、「やってみなはれ、なんでもやってみなけりゃわかりまへん」という言葉に押されるように、よーし、一丁やったるかーと先輩の知り合いの焼鳥店を紹介してもらい郷里の八戸での焼鳥屋開業を目指し新たに私の焼鳥屋修業が始まったのです。

それから3年間、鳥を捌き、串を打ち焼き場に立ち、接客もし食べたことのない部位も食べさせてもらい更には財務までも教えていただき、より一層開店に向けて弾みがついた31歳、意気揚々と妻と幼い3人の子供を連れて八戸へ帰って来たのでした。


そして開業

が、しかーし。
肝心の開業資金はゼロ、、、、。

父親に何度も何度も思いを打ち明けようやく1997年5月29日、八戸市中居林に妻と二人で24席の小さな焼鳥店「串焼処 串兵衛」を開業することができました!

今年の5月で焼鳥店を始めて25年目を迎えます。

いろんなことがあった25年でしたが、美味しかったよ!の一言で私の方がお客様から明日への活力をいただいてます。

どんなに世の中が目まぐるしく変わろうと疫病が流行ろうと人間というには心のぬくもりを求めます。

そんな心のぬくもりを生み出すコミュニケーションづくりの助けに少しでもお役に立てれば焼鳥屋のおやじとして幸いです。

よかったら是非一度食べに来てください!

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串焼処 串兵衛