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この人はだれでしょう?

2021/04/24

一枚の古い写真

私が生れた時には、私の祖父はすでに他界していた。
それも日本ではなく、海を渡った蒙古(今のモンゴル)の地で亡くなった。
当時、厚和と呼ばれていた地に『厚和神社』があり、その神社の神主の任に就いてほしいという要請があり、それに応じるかたちで彼の地に赴いていた。

厚和神社
祭神  天照大神
        国魂大神
創立  昭和15年12月30日
鎮座地   厚和特別市大馬路
所轄。領事館   厚和領事館所轄

海外の神社
http://kitabatake.world.coocan.jp/jinjya9.html

なぜ、蒙古かというと、当時、満州という地を中心に大東亜共栄圏の構想があった。
欧州の勢力が東南アジアを次々に侵略、植民地化が進み、このままいけば、
いずれ日本も植民地と化し、欧州に飲み込まれてしまうという切羽詰まった状況であった。
このまま手をこまねいている間は無く、日本としてはアジアの共栄圏をつくり、
欧州からアジアを解放しようという流れの中での任務であった。

戦後の教育は、日本のアジアへの侵略戦争ということに、GHQの教育政策によってゆがめられてしまった。
当時は『大東亜戦争』という言い方であったのが、GHQによって、卑怯な日本の真珠湾攻撃によって『太平洋戦争』が勃発したということに変えられてしまった。

父は先の大戦についての間違った解釈にいつも憤慨していた。
父は海軍に所属し、終戦時にはフィリピンで捕虜となり、捕虜になった日本兵の統制責任者の任にあった。

というのも、捕虜たちの中に、別名『入れ墨部隊』というヤ〇ザばっかりが集められた部隊があり、全く米兵の手に負えない連中だったのです。
そこで、なぜか父に白羽の矢が当たり、その部隊の統率者の役目を負わされたのです。
結果においてはうまく手名付け、みんなから『おやっさん』と一目置かれる存在になっていました。米軍からは、その統率力の腕を買われ、戦後もこのまま米軍で働かないかと誘われたそうです。

終戦で帰国したあとも、その時のヤ〇ザの軍人さんたちが父を慕って訪ねて来ました。
すると父は、
「戦争は終わった。俺はかたぎだ。お前たちとは住む世界が違う。これをやるからもう来るな」
と、お金を包んで渡してやったということです。

それはさておき、
父が憤慨する一つに、真珠湾攻撃が奇襲であったとすること。
実は、アメリカが日本に罠にはめ、奇襲されたことにして日本を悪者に仕立て上げることで、日本との戦闘を正当化したということ。

つまり、アメリカは事前に暗号を解読しており、日本海軍が攻めてくることを察知して軍の中枢はそこから離れ、現場の兵隊たちを残して見殺しにしたということです。
さらに、日本軍は米軍と戦っても民間人を標的にしたことは無い。
広島、長崎への原爆投下は米軍による民間人への無差別殺戮です。
この方がずっと卑怯です。

私は小さいころから幾度となく父から聞かされていたので、アメリカの言い分通りの学校教育には洗脳されなかったが、戦後の教育で大きくなった両親のもとで育った、さらに若い人たちの間では真意を理解するものはほんの少数派かもしれない。

日本は第二次世界大戦で負けても、アジアの解放という目的は達せられたという意味においては勝利した。実際、東南アジアの国々は戦後次々と独立を果たした。

その独立の裏には、日本の西欧に屈しない日本の姿勢に大いに、アジアの人々の誇りと自信を目覚めさせた意義は大きい。
インドネシアの教科書には、日本のおかげで我が国は独立を果たしたと記されているとのことだ。



 

パラオの国旗

激戦地となったパラオでは、日本兵が次々と死んでいく中、パラオの住民は誰一人死者を出さなかった。
なぜなら、日本軍は住民を遠く避難させ、日本兵は米軍を食い止めた。
パラオの男たちは、日本兵と共に戦いたいと申し出たが、
パラオの建設のために生き延びるよう説得し避難地に戻したという。

パラオはその時の恩を忘れないために、パラオの国旗は日の丸を模していると言われている。




 

まぼろしの満州国

封じられた歴史〜満州国建国の真相〜|中森護
満州国とは、いったいどのような歴史の中で建国されようとしたのか。


 

満州国は日本の植民地ではなかった

著者 黄文雄 Wac bunko 2005年9月7日
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