明治天皇すり替え説と伯家神道
2021/08/20
明治天皇と高浜清七郎
伯家神道(はっけしんとう)は、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家によって受け継がれた神道の一流派である。白川神道(しらかわしんとう)とも呼ばれる。
れんだいこの天皇制論その1、歴史論総論 より抜粋
白川伯家最後の学頭・高浜清七郎
明治天皇に「十種神宝御法(とくさかむたからのごほう)」を指導したと云うことで現在でも「古神道」と云えば名前が挙がってくる人に白川家最後の学頭・高浜清七郎がいる。その高浜についてまづ概説してみたい。高浜は現在港區白金台にある瑞聖(ずいしよう)寺に「高浜清七郎源正一霊人」として祭られている。命日は明治二十六年二月二十八日、享年八十一歳であった。毎年命日には門人の代表によって年祭が行われている。百年祭が行われてからまだ年が浅い。通称、高浜正一と呼ばれていた。
清七郎は、文化八年(一八一三)備前都窪郡(現在の岡山県総社市で農家の子として生まれた。年齢は定かではないが京都に奉公に出て、入門時には白川家出入りの呉服商人になっていた。祭事に必要な衣裳全般にわたる御用立てを引き受けてをり、出入りしているうちにその才覚を見込まれて行学を修めるようになった。「白川家門人帖」によれば、天保年間一八三〇~四三年)に「『七種修業』終了門人免許」とあり、「白川門人」として入門を許された。修行は他の門人に秀でて進み、文久二年(一八六二 = 五十歳)八月には「十種神宝御法」(これが「祝(はふり)の神事」にあたるもの)の相伝を受け、内侍所並びに神祗官御免状、内侍御印書を拜受した。「十種(とくさ)」と呼ばれるようにこの御法は十段階に分けられ、「七種」を修めて入門が許され、「三種」で一般の門人の修行は終了する。「二種」、「一種」は神伝となり、「一種」が天皇の神拜所作である。
高浜の影響を受けたと思われる神道家に江戸・明治期に活躍した「鎭魂帰神法(ちんこんぎじんほう)」を確立した本田親徳(ほんだちかあつ)がいる。本田は『本田親徳全集』の中で、「鎭魂帰神法」は日本古来から伝承されたもので、それを伝統に学んだとしている。それは、本田が高浜と友人だった事や「鎭魂帰神法」が俗に「輪外(わはず)れの鎭魂」と呼ばれている事から本田がこれを高浜清七郎かその一派から学んだと云って間違いないだろう。ちなみに「祝の神事」は取次者が輪になって行う「輸の鎭魂」とも云えるものである。
高浜が後世高い評價を受けたのは、伯王に代わって宮中神事に奉仕したばかりでなく、白川伯家最後の学頭として皇太子時代の明治天皇への「十種神宝御法」の指導に携わった事からであろう。指導に携わっ時期は「十種神宝御法」の相伝を受けた文久二年(一八六二)八月以降から慶応三年(一八六七)までの間とみてよいだろう。「祝の神事」を実習しその意義を充分理解したと思われる明治天皇は、即位後も再三再四「高浜は今どこにいるか」と側近に間われたと云い伝えられている。然し、高浜清七郎の消息を知らせる者はいなかったと云う。「祝の神事」では、行を指導することを「お取立(とりたて)」をすると云って、「さにわ」、「かみしろ」、「はふりめ」と呼ばれる者たちがお世話をする事になっている。
れんだいこの天皇制論その1、歴史論総論 より抜粋
白川伯家最後の学頭・高浜清七郎
明治天皇に「十種神宝御法(とくさかむたからのごほう)」を指導したと云うことで現在でも「古神道」と云えば名前が挙がってくる人に白川家最後の学頭・高浜清七郎がいる。その高浜についてまづ概説してみたい。高浜は現在港區白金台にある瑞聖(ずいしよう)寺に「高浜清七郎源正一霊人」として祭られている。命日は明治二十六年二月二十八日、享年八十一歳であった。毎年命日には門人の代表によって年祭が行われている。百年祭が行われてからまだ年が浅い。通称、高浜正一と呼ばれていた。
清七郎は、文化八年(一八一三)備前都窪郡(現在の岡山県総社市で農家の子として生まれた。年齢は定かではないが京都に奉公に出て、入門時には白川家出入りの呉服商人になっていた。祭事に必要な衣裳全般にわたる御用立てを引き受けてをり、出入りしているうちにその才覚を見込まれて行学を修めるようになった。「白川家門人帖」によれば、天保年間一八三〇~四三年)に「『七種修業』終了門人免許」とあり、「白川門人」として入門を許された。修行は他の門人に秀でて進み、文久二年(一八六二 = 五十歳)八月には「十種神宝御法」(これが「祝(はふり)の神事」にあたるもの)の相伝を受け、内侍所並びに神祗官御免状、内侍御印書を拜受した。「十種(とくさ)」と呼ばれるようにこの御法は十段階に分けられ、「七種」を修めて入門が許され、「三種」で一般の門人の修行は終了する。「二種」、「一種」は神伝となり、「一種」が天皇の神拜所作である。
高浜の影響を受けたと思われる神道家に江戸・明治期に活躍した「鎭魂帰神法(ちんこんぎじんほう)」を確立した本田親徳(ほんだちかあつ)がいる。本田は『本田親徳全集』の中で、「鎭魂帰神法」は日本古来から伝承されたもので、それを伝統に学んだとしている。それは、本田が高浜と友人だった事や「鎭魂帰神法」が俗に「輪外(わはず)れの鎭魂」と呼ばれている事から本田がこれを高浜清七郎かその一派から学んだと云って間違いないだろう。ちなみに「祝の神事」は取次者が輪になって行う「輸の鎭魂」とも云えるものである。
高浜が後世高い評價を受けたのは、伯王に代わって宮中神事に奉仕したばかりでなく、白川伯家最後の学頭として皇太子時代の明治天皇への「十種神宝御法」の指導に携わった事からであろう。指導に携わっ時期は「十種神宝御法」の相伝を受けた文久二年(一八六二)八月以降から慶応三年(一八六七)までの間とみてよいだろう。「祝の神事」を実習しその意義を充分理解したと思われる明治天皇は、即位後も再三再四「高浜は今どこにいるか」と側近に間われたと云い伝えられている。然し、高浜清七郎の消息を知らせる者はいなかったと云う。「祝の神事」では、行を指導することを「お取立(とりたて)」をすると云って、「さにわ」、「かみしろ」、「はふりめ」と呼ばれる者たちがお世話をする事になっている。