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日露戦争の英雄はなぜ自決を望んだか

2021/09/13

名将 乃木希典(のぎ まれすけ)

右の写真は乃木坂にある、乃木神社。

「どんな大敵が攻めてきても、
 3年は持ちこたえる」
byロシア軍

「ヨーロッパやアメリカの軍隊でさえ、
この要塞を陥れることはほぼ不可能に等しい」
byルーズベルト

日露戦争真っ只中…

誰も攻略することができないとされていた
難攻不落の大要塞があった。

その名も「旅順要塞」

しかし、、、

ある1人の日本人が、
そんな世界の状況を変えた。

その将軍の名は、乃木希典。

彼は、
200万人もの兵力を誇るロシア軍を
半分の人数で沈め、

ロシア軍が3年かかると豪語した
旅順要塞をわずか4ヶ月で攻略...

最終的に、 日本の10倍もの国費を持ち、
世界最強と言われたロシア軍を倒した。

これは世界史上初のことで
まさにありえないことだった。

これほどの戦功をあげた乃木は、
「誇りある日本の英雄」として
国民から引っ張りだこに。

しかし、そんな乃木将軍が、
日露戦争後、明治天皇への報告で
自決をしたいと言い出したのだ。

日本を勝利に導いた英雄が
なぜ自決を望んだのか?

PRIDE and HISTORY 事務局 栗原 沙莉衣
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大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の午後8時頃、
乃木は妻・静子とともに自刃して亡くなった。享年64(満62歳)没。

乃木は、いくつかの遺書を残した。
そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた。

乃木は、日露戦争で二人の息子を失い、自らの指揮の下、万を超える夥しい戦死者を出したという自責の念があって、自分の命をもって償いたいと言う意思がありました。

明治天皇がそれを止めるために、

「どうしても死ぬというなら朕が死んだ後にせよ」

と言われたといい、
これが殉死を選んだ理由のひとつとも考えられています。

万葉歳時記 一日一葉 より引用













 

水師営の会見

水師営会見 中央二人が乃木将軍とステッセル将軍(後列左4人目松平英夫)
旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセルと会見した。

この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。
会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じた。

これを受けて、乃木は、ステッセルに対して極めて紳士的に接した。

通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセルに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。

乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させず、ステッセルらロシア軍人の名誉を重んじた

Wikipedia  より引用

乃木に対する世界的賞賛

乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された。

また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセルへの処遇については世界的に評価された。

乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。

また子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した。

加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。

Wikipedia  より引用 
ロシア皇帝に死刑を宣告されたステッセルに助命嘆願書を送ったのが乃木将軍。将軍が明治大帝に殉死したことを聞いた、僧侶になったステッセルから香典が届けられた、という逸話がある。 ※動画コメントより


私の独り言

男の生き方として、本当に潔く、侍精神の鏡。
奥様の静子さんも、夫に殉じて亡くなりましたが、
こういう夫なら本望ですね。

後を託す息子を。二人とも、この戦争で亡くしていますから、
自分たちも早く子供のところへ逝こうという想いもあったのでしょう。

最近の政治家は、小ずるいヤツが多く、そんな奴がのさばっていて、
日本を貶めるようなことを悪びれもなくやっている。

先人が命がけで守ってきた、
この日本の地で、のうのうと日本の空気を吸い、
日本人面をして、
彼らの御霊を祀る、靖国神社の参拝を拒むのだ。

まるで理由がわからない。

総理が外国訪問すれば、相手国の戦没者の墓にはお参りするのは礼儀。
それが、なぜ自国ではできないのか。

軍馬も敵兵も祀ってある靖国神社が軍国主義の象徴だなんて、
見当違いも甚だしい。


本当にウンザリする。 
靖国神社・第5回 靖國の心を未来へ! 「感謝の心をつなぐ青年フォーラム
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