“おんな北斎”と呼ばれた天才絵師
2021/09/25
北斎の娘 応為(おうい)
応為は1800年、北斎の2人目の妻
「こと」との間に三女として生まれます。
ちなみに「応為(おうい)」というのは雅号であり、
本名は「お栄(おえい)」と言います。
彼女は、まるで「北斎を女にした」かのような人物で…
酒やタバコが大好き、口が悪く態度がでかい。
そして、料理ができず、掃除もしない。
江戸時代はまだまだ
「女はおしとやかで、男を立てる」
という文化が色濃く残る時代。
一度だけ、南沢等明(みなみさわとうめい)
という画家に嫁入りしたのですが…
家事を一切せず、挙げ句の果てには
旦那の絵を鼻で笑う応為に愛想をつかしたのか、
すぐに離縁してしまいます。
そんな北斎のDNAを受け継いだ娘、もちろん受け継いだのは
破天荒な性格だけでなく、絵師としての才能もピカイチでした。
②(絵師として)
「余の美人画はお栄(応為)に及ばざるなり」
これは、北斎が残した言葉であり、
娘の応為の才能を認めていたことがわかりますね。
(ちなみに、北斎は応為のことを「アゴ」と読んでいたらしいです。
これは彼女の「アゴが出ていたから」らしいですが…
娘とはいえ、何とも辛辣な父親ですよね…)
離縁後はすぐに実家に戻り、北斎の助手として
本格的に画業に打ち込むこととなった応為。
江戸唯一の女絵師として、独特の陰影の使い方、
女性の描き方は北斎のみならず、町中の人々を驚かせました。
ですがこの時代、女絵師が生きていくのは
相当に苦しかったようです。
北斎は、生涯に3万を超える絵を残しましたが、
「応為」が残した絵はたったの10数点…
江戸の世においては、
「女が描いた絵などいらぬ」と
ほとんど見向きもされない時代。
父親の雅号を使えば、絵は飛ぶように売れるため、
たとえ、ほとんど応為が手を入れた絵であっても、
「北斎」の名を入れることが多かったと言われています。
諸説ありますが、北斎が80歳を超えた頃の肉筆画は、
彩色が若々しく精緻に過ぎる作品がたびたび見られ、
こうした作品が「応為作」ではないかとする意見もあります。
「こと」との間に三女として生まれます。
ちなみに「応為(おうい)」というのは雅号であり、
本名は「お栄(おえい)」と言います。
彼女は、まるで「北斎を女にした」かのような人物で…
酒やタバコが大好き、口が悪く態度がでかい。
そして、料理ができず、掃除もしない。
江戸時代はまだまだ
「女はおしとやかで、男を立てる」
という文化が色濃く残る時代。
一度だけ、南沢等明(みなみさわとうめい)
という画家に嫁入りしたのですが…
家事を一切せず、挙げ句の果てには
旦那の絵を鼻で笑う応為に愛想をつかしたのか、
すぐに離縁してしまいます。
そんな北斎のDNAを受け継いだ娘、もちろん受け継いだのは
破天荒な性格だけでなく、絵師としての才能もピカイチでした。
②(絵師として)
「余の美人画はお栄(応為)に及ばざるなり」
これは、北斎が残した言葉であり、
娘の応為の才能を認めていたことがわかりますね。
(ちなみに、北斎は応為のことを「アゴ」と読んでいたらしいです。
これは彼女の「アゴが出ていたから」らしいですが…
娘とはいえ、何とも辛辣な父親ですよね…)
離縁後はすぐに実家に戻り、北斎の助手として
本格的に画業に打ち込むこととなった応為。
江戸唯一の女絵師として、独特の陰影の使い方、
女性の描き方は北斎のみならず、町中の人々を驚かせました。
ですがこの時代、女絵師が生きていくのは
相当に苦しかったようです。
北斎は、生涯に3万を超える絵を残しましたが、
「応為」が残した絵はたったの10数点…
江戸の世においては、
「女が描いた絵などいらぬ」と
ほとんど見向きもされない時代。
父親の雅号を使えば、絵は飛ぶように売れるため、
たとえ、ほとんど応為が手を入れた絵であっても、
「北斎」の名を入れることが多かったと言われています。
諸説ありますが、北斎が80歳を超えた頃の肉筆画は、
彩色が若々しく精緻に過ぎる作品がたびたび見られ、
こうした作品が「応為作」ではないかとする意見もあります。
吉原格子先之図
※引用元:Wikipedia(パブリックドメイン)
吉原遊郭の和泉屋を舞台に、格子越しの花魁と遊女、
手前の禿と客を描いた作品です。
この作品は、北斎がオランダ人から依頼された物と、
紙のサイズが一致していることから、1818年頃から
1844年の間に描かれたといわれています。
日本で最初に影を描いたのは、
平賀源内(ひらがげんない)の一党でしたが、
この絵ほどの完成度ではありませんでした。
また、遊女のいる大行灯の明るい部屋は、
遠近法を用いられ、格子も立体的に構成されています。
これは、応為の作品で最も評価されており、
応為の真骨頂とも言える“光の表現”が
惜しみなく発揮された作品と言えるでしょう。
●春夜美人図(別名:夜桜美人図)
※著作権の関係上、引用できる画像なし
Googleなどの検索参照
灯篭の明かりを頼りに短冊に筆を走らせる女性が描かれており、
ほの暗い夜の中に広がる陰影を見事に表現しています。
カメラや写真を参考にできない時代、これだけの明暗を
描き分けられたのは、脅威とも言えそうです。
ちなみに、陰影による表現は西洋画によく見られる技法。
応為はなぜその技を知っていたのでしょうか。
実は、この裏にこんな話があります。
当時、ドイツ人医師であるシーボルトは
こっそりと北斎に絵を依頼。
絵に「北斎」の雅号は入っていませんが、
シーボルトの記録に「北斎に絵を依頼した」とあり…
北斎は密かに西洋画に触れていた可能性が高いのです。
江戸時代…画業は一つの流派を極めていくというのが常識でしたが、
北斎が貪欲に国内外問わず、さまざまな画法を学んでいたことで、
応為もその恩恵を受けていたのかもしれません。
※引用元:Wikipedia(パブリックドメイン)
吉原遊郭の和泉屋を舞台に、格子越しの花魁と遊女、
手前の禿と客を描いた作品です。
この作品は、北斎がオランダ人から依頼された物と、
紙のサイズが一致していることから、1818年頃から
1844年の間に描かれたといわれています。
日本で最初に影を描いたのは、
平賀源内(ひらがげんない)の一党でしたが、
この絵ほどの完成度ではありませんでした。
また、遊女のいる大行灯の明るい部屋は、
遠近法を用いられ、格子も立体的に構成されています。
これは、応為の作品で最も評価されており、
応為の真骨頂とも言える“光の表現”が
惜しみなく発揮された作品と言えるでしょう。
●春夜美人図(別名:夜桜美人図)
※著作権の関係上、引用できる画像なし
Googleなどの検索参照
灯篭の明かりを頼りに短冊に筆を走らせる女性が描かれており、
ほの暗い夜の中に広がる陰影を見事に表現しています。
カメラや写真を参考にできない時代、これだけの明暗を
描き分けられたのは、脅威とも言えそうです。
ちなみに、陰影による表現は西洋画によく見られる技法。
応為はなぜその技を知っていたのでしょうか。
実は、この裏にこんな話があります。
当時、ドイツ人医師であるシーボルトは
こっそりと北斎に絵を依頼。
絵に「北斎」の雅号は入っていませんが、
シーボルトの記録に「北斎に絵を依頼した」とあり…
北斎は密かに西洋画に触れていた可能性が高いのです。
江戸時代…画業は一つの流派を極めていくというのが常識でしたが、
北斎が貪欲に国内外問わず、さまざまな画法を学んでいたことで、
応為もその恩恵を受けていたのかもしれません。
ダイレクト出版・政経部門
ルネサンス編集部
田中 孝輔(たなかこうすけ)
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