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クリムトが描く官能の世界

2025/12/15
『クリムト・アライブ 大阪展』
2025年12月5日(金)~2026年3月1日(日)
https://klimtalive.jp/osaka/

スタフ・クリムト(ドイツ語: Gustav Klimt)

19世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862-1918)
華やかな装飾性と世紀末的な官能性をあわせもつ作品は、いまなお圧倒的な人気を誇ります。

1862年 ウィーンの郊外のバウムガルテンという街に生まれた。父は彫版師。

1876年 博物館付属工芸学校に入学。デッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受ける。

1897年 弟の1人と友人の3人で美術やデザインの請負を始めた。クリムトは19世紀後半のウィーン美術界を代表する画家ハンス・マカルトの影響を受けていた。マカルトの死後は彼の後継者としてみられた。

卒業後は3人で芸術家商会という会社を作り、劇場装飾を中心とした仕事を始めた。すぐに軌道にのり評価も受けた。

装飾家として活躍していたクリムトは1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼され、「哲学」、「医学」、「法学」の学部の絵3点の製作に取りかかった。

大学側は知性の勝利を歌いあげるということを意図していたが、クリムトの3作品は理性を否定するかのような官能的な作品になっていた。

そのため、大批判、大炎上を巻き起こしたが、これがきっかけとなり画家としてのクリムトが知られていくことになった。これらの作品は、のちのナチスによって没収され焼失した。

1897年には保守的な美術組合を嫌った芸術家たちによって、ウィーン分離派が結成された。クリムトが初代会長を務めた。
クリムトは1902年の第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出展したが、これもまた批判を受ける。

1905年には分離派内部で方針などをめぐり対立が起き、クリムトとその同志は分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。
その後も作品を製作していたが、脳梗塞とスペイン風邪の悪化により1918年に亡くなった。

代表作「接吻」1908年

クリムト本人と愛人のエミーリエがモデルだと言われている。
金箔が多様された「クリムト黄金の時代」の代表作でもある。ウィーンにあるオーストリア・ギャラリーに収蔵されている。

医学 哲学 法学 1894年

ウィーン大学の天井画として制作された3部作。
知的な作品を要求した大学に対し、官能的な作品を作り、批判された作品。しかしこの作品で逆にクリムトの作品が知られ、名声を高めた。
この作品はのちの1945年にナチスによって没収され焼失した。

「女神ヒュギエイア」

ギリシア神話に登場する女神ヒュギエイアを描いた作品。

女神ヒュギエイア(Hygieia)は、ギリシア神話に登場する健康と衛生を司る女神で、医神アスクレーピオスの娘
ギリシア語で「健康」を意味し、英語の「hygiene(衛生)」の語源でもある。アスクレーピオスとともに信仰され、一匹の蛇が巻きついた杯(ヒュギエイアの杯)を携える姿で描かれ、これは薬学のシンボルとして使われている。 

ユディトⅠ  1901年

旧約聖書のユディト記に登場するユダヤ人女性、ユディトを題材にした作品。未亡人で美しく、強い信仰を持っていたと言われる女性。

アッシリアの王ネブカドネツァルが自分に協力しなかった諸民族を攻撃するために司令官ホロフェルネスを派遣した。
そのホロフェルネスの首をユディトが切り落とした。その時の光悦したユディトの表情を描いた作品。

ベートヴェン・フリーズ 1901年

画像は「敵対する勢力」 
クリムトの中でもは最大級の大きさの壁画作品。
ベートヴェンを讃え賞賛するための展示会のためにつられた作品。

交響曲第9番を壁画として絵で表現
こ作品は3つの場面に別れており、
・「第1場面-幸福への憧れ・弱き人間の苦悩・武装した強者に対する弱者の哀願」
・「第2場面-敵対する勢力」
・「第3場面-ポエジーに慰めを見出す憧れ(詩)・歓喜(天使たちの歓喜のコーラス)・接吻」。

エミーリエ・フレーゲの肖像 1902年

クリムトの作品には自発的に描いたものと依頼されて描いたものの2種類がある。この作品は前者である。

エミーリエ・フレーゲはクリムトが最も愛した人物だと言われている。
そのエミーリエ、28歳の頃。美しく芯の強そうな女性である事が伝わる。

クリムトは生涯独身であったが、多くの愛人もいた。多くの女性が裸婦のモデルをつとめ、愛人関係になった者もいた。多い時には15人もの女性が寝泊まりしたという。その中でもエミーリエ・フレーゲと言う女性を最も愛していたと言われている。

クリムトの最期の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」だったと言われている。

希望Ⅱ 1903年

暖かい印象のする作品だ。妊婦を描いた作品で、これから生まれる生命への明るい希望が感じられる。

水蛇Ⅱ 1904年

ジャポニズの影響が強いと言われるのがこの作品。煌びやかで妖艶な雰囲気のある作品。

ギリシャ神話に登場するヒュドラ(水蛇の怪物)と若い女性のもつ魔力のような魅力を掛け合わせた作品だと言われている。

生命の樹 1905年

実業家アドルフ・ストックレーが建築家ヨーゼフ・ホフマンに依頼した自邸ストックレー邸の中の壁の装飾画として製作されたのがこの作品。

木が渦を巻きながら四方へと成長する様子を絵描き、生命力を表現している。

ストックレー邸はモダニズムを代表する建築で2009年に世界遺産に登録された。

人生の三段階(女の3世代)1905年

人間の一生を幼年期、青年期、老年期の三段階にわけ、一人の女の一生を描いたとも言われている。

中央に青年期の若く美しい女性が描かれ、幼年期の子供を抱いている。そして左の背景には醜くなり、うなだれる老婆が描かれている、

老いの恐怖、残酷さも感じられる。
一枚の絵の中に生と死、喜びと悲しみが感じられる作品。

農家の庭 1907年

クリムトの風景画としては最高額の67億円で落札された作品。
農家の庭の色彩豊かな花々と植物が描かれている。

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I 1907年

2006年にクリムトの作品として最高額の156億円で落札された作品。当時の絵画としも最高額であった。

ウィーンの銀行家で実業家のフェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻、アデーレをモデルに描いた作品。フェルディナントは糖業で富を得た実業家で多くの芸術家のパトロンになっていた。

クリムトはこの絵の完成に3年を費やした。
1912年には『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II』も描いている。

メーダ・プリマヴェージ 1912年

クリムトの後期の代表作。
背景がピンク色でかわいイメージのする作品。

オーストリアの実業家で銀行家のオットー・プリマヴェージの9歳の娘の肖像画。オットー・プリマヴェージは20世紀初頭、ウィーンの芸術界の大型パトロンであり女優であった。

9歳とは思えない顔立ちで、芯の強さのようなものを感じさせる作品。

死と生 1916年

こちらもクリムトの後期の代表作。

生と死の対立・循環をテーマにした作品だ。クリムトの作品の中でも特に生と死を象徴的に対峙させた作品。

大人、子供、男女など人生の様々な段階が描かれた生の象徴と死の象徴である骸骨が対峙している。