いそずみ達也のプロフィール

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13歳からNHKラジオ講座「基礎英語」を聴き始める。毎週土曜日に放送されていた「発音コーナー」で、英語の発音を独学で習得。以降、英語に夢中になり、中学時代には英語のスピーチコンテストで入賞。南山大学英語学英文学科を卒業後、1990年に単身渡米。California State University Northridge の大学院にてジャーナリズムを専攻。途中、専攻を言語学に変更し、1995年に言語学修士及び国際英語教員資格のTESOL取得。

アメリカ留学時代にアメリカ人恩師の影響で将来はアメリカに永住すると決意。以来、アメリカ永住権の取得が人生において大きな夢・目標となる。

アメリカ大学院卒業後は、一旦日本に帰国し、外資系企業を10年程渡り歩く。その後、大手商社に就職し、北米海外子会社立ち上げのため労働ビザを取得してアメリカに戻る。

一方、アメリカでの職場環境は想像を絶する劣悪さを極める。日本人上司からのパワハラに3年間耐えた後、別の日系企業に就職するも、そこでもパワハラに遭う。2社連続で約8年間パワハラに耐え抜いた末、2019年に念願のアメリカ永住権を取得し、30年来の夢を達成する。

現在はアメリカ現地法人にて会計責任者として勤務する傍ら、英語コンサルタントとしてマンツーマン英語指導、ビジネス英語教材や国際結婚のための英会話教材の開発、翻訳・英文添削サービス、ウェブマーケティング等、複数のビジネスに取り組んでいる。アメリカ在住年数は、通算で約18年(2020年現在)。

また、英会話系YouTubeチャンネル「LisaPapa English」立ち上げのため現在準備を進めている。ハワイ生まれの一人娘でバイリンガルのティーンエージャー、Lisaとパパが繰り広げる、父と娘による英会話チャンネルに仕立てる予定だ。

趣味は、ピアノ演奏ハイキングキャンピングテニスヨガフィットネスジムに通うこと。アメリカの大自然をこよなく愛し、死ぬまでにアメリカ全州を訪問し、全米すべての国立公園 (National Park) を制覇するのが夢。

私の過去の人生・総括と分岐点私の過去の人生・総括と分岐点

小学生時代

【TVドラマ「赤い激流」がきっかけでピアノに目覚める
 
・初恋は小学1~2年生の時、女の子の名前は「めぐみ」。
・生まれて初めて大人の女性に憧れたのもこの頃。初めて好きになった芸能人は麻丘めぐみ
・3歳の時に親から強制され
ピアノを習い始める。しかし練習曲ばかりで途中で嫌気が差し、結局小学校3-4年の頃にやめてしまう。
・小学校5年の頃、当時流行っていたTVドラマ「赤いシリーズ」(山口百恵主演)の1つ「
赤い激流」でクラシックピアノに目覚め、ピアノを独学で再開。ピアノは現在も趣味として続けている。
小学校5年生で変声期を経験。当時「変声期になると〇〇毛が生えるんだよね」と別の男子生徒にみんなの前で冷やかされ、恥ずかしい思いをする。

中学生時代

【英語との出会いで人生の方向性が決まる一方、壮絶ないじめに心を砕かれる】

・中学に入り「
NHKラジオ基礎英会話」を聴き始める。毎回の講座も一度も聞き逃すことなく1年間やり続けた結果、英語の発音と基礎英会話を完全独学でマスターする。
・中学3年生になると、最初は仲良くしていた男子生徒二人からの
いじめが始まる。徹底的な無視、靴の中に虫を入れられたり、私物に落書きされるなどのいじめが執拗に続く。
・いじめが原因で学校を抜け出し、先生や友人が外まで探しに出かけるなど迷惑を掛けてしまう。その後は
登校拒否になり、1日中自宅の押し入れに隠れていたことも。

高校生時代

【親戚のビジネス失敗で名古屋で生まれ育った一軒家を失う】

・高校2年の時、
親戚のビジネスが失敗し、その親戚に金銭的協力をしていた我が家にも影響、結局これまで住んできた名古屋の一戸建てを明け渡す羽目に。その後、祖母が他界し、家族は名古屋市内の別のマンションに移り住むことに。
・英語については学年トップクラスを維持できていた。一方、数学や物理は苦手。物理は追試を受けなくてはならないほど成績が悪かった。
・高校3年の最後の冬、地元名古屋の私立大学「南山大学」と東京の「上智大学」を受験。南山大学しか受からなかったため
南山大学に進学

大学時代~アメリカ留学前

【バンド演奏に明け暮れ、女性に振り回された大学4年間。愛車のホンダ・プレリュードを乗り回すチャラ男】

・地元名古屋の南山大学に進学するも、
学業よりは音楽やバンド演奏活動に夢中になった。地元のカフェや居酒屋「ジョン万次郎」でのピアノ演奏の経験も。
・学生時代は
ホンダのプレリュードを乗り回すチャラ男だった。一方、女性関係については大いに悩んだ4年間となる。初めて親密にお付き合いした女性「Y」。気が強い女性で1年足らずの交際で別れる。その後、同じ英文科の後輩で社長令嬢の「I」に熱を上げるがいいように振り回され、精神的に崩壊しそうになる。

アメリカ留学5年間

【人生の黄金時代、留学1年目でアメリカ永住を決意】

・1990年にアメリカに初渡米。好きな英語が思い切り勉強できると期待を膨らませて成田から直行便でLAへ。この時に
生まれて初めて24歳で飛行機に乗る
・バイブルスタディーで出会った女優の
フィービーケイツ似のフィリピン系混血アメリカ人女性Merryに一目惚れ。
・カリフォルニア州Irvineで、当時私の英作文の家庭教師をしてくれていた Mrs. K。英語だけでなく、アメリカ文化や人生全般について多くのことを教えてもらい、自分にとっては
アメリカ永住を決心する上で大きな影響を受けたメンターの一人。
California State University Northridge の大学院課程ジャーナリズム学科に合格。共同通信社LA支局のインターンを務める傍ら、スポーツニッポン新聞社より1993年大統領選挙の取材同行兼通訳を依頼される。スポーツニッポン記者とテキサス州、アーカンソー州へ赴き、クリントン前大統領夫妻、バーバラブッシュを間近で見る
・当時は
英文記者を目指していたが、ジャーナリストとしての生き方に疑問を持ち(仕事一本で家族との時間が取れず離婚率も高いなど)、専攻をジャーナリズムから言語学に変更、最終的には California State University Northridge の大学院課程で言語学修士号を取得。
・卒業前にはLAの日系商社と面接し内定をもらっていた。しかし、日本の本社とも面談が急きょ必要になりいったん日本に一時帰国。本社との面接が
圧迫面接であったため商社への就職は断念。アメリカでの就職は諦めていなかったが、親から早く帰国するよう促され、卒業式も出席せず1995年5月に日本に帰国。現地の友人には、必ずアメリカに戻ってくると約束するが・・・。

東京で就職・結婚・再渡米

【外資系企業への転職を繰り返し12年後にやっとアメリカへ戻るが生活が安定せず、家族が離れ離れに】

・5年間のアメリカ留学を終え、
外資系企業の通訳・翻訳のポジションを見つけ上京。
・当時は板橋区成増のアパートに一人暮らし。東京には知り合いもいなかったので、彼女の一人でも作ろうと思い、
六本木のパーティに参加。そこで現在の妻と出会う。妻とは出会ってから3カ月ほどでスピード結婚平成8年8月8日の末広がりに入籍、自分の誕生日の9月26日にオーストラリアで新婚旅行を兼ねて挙式。
・妻とは結婚する前から「
自分はいずれアメリカに戻るから、将来アメリカで住んでもよいことが結婚の条件」と伝えていた。
・当初就職したエレベーターの大手製造会社では
通訳・翻訳担当で入社するが限界を感じ、手に職を付ける必要があることを思い知る。当時、米国公認会計士(USCPA)がビジネス資格として注目を浴び始め、アメリカへ戻るきっかけとしてUSCPAの資格取得を目指し専門校に通い始める。会社では翻訳の仕事から経理部門への配置転換を申し出、受け入れられる。一方、日本特有の企業文化についていけず社内で孤立100%外資系企業への転職活動を始める。
・エレベーターの会社は3年で退職し、アメリカの広告代理店(恵比寿ガーデンプレイス)に経理担当として入社。しかし勤務環境は過酷でニューヨーク帰りの上司からダメだしされ
3カ月で首になり外資の洗礼を受ける。その後は外資系での仕事術も徐々に身に付け、転職を繰り返すごとに年収をアップ。2002年にはハワイで第一子となる娘を出産(娘はアメリカ国籍も同時に取得)。最終的には年収1000万円を達成するが、女性上司から逆セクハラを受け、その後は翻訳会社の契約社員として自宅勤務するようになる。やがて翻訳者として独立を果たしフリーランスとなるが、中々アメリカへ戻るきっかけをつかめず。そこで正看護師だった妻がアメリカの看護師資格(RN)を目指したいと言い出し、家族でアメリカへ渡ることを決意。妻は学生ビザ、私は配偶者ビザでアメリカに入国。私はオンラインの翻訳業で家計を支えるが、2008年リーマンショックで翻訳案件が激減し、妻と娘をアメリカに残して自分だけ日本に帰国し就職、日本からアメリカに生活費を仕送りしアメリカでの家族の生活を支えることに。

労働ビザ取得後の9年間

カリフォルニア州から中西部へ家族で大移動、ビザ奴隷の暗黒時代に突入

カリフォルニア州で家族3人で暮らし始めるも、2008年リーマンショックの影響で私だけ日本帰国を余儀なくされる。しかし幸いにも大手自動車メーカーですぐにポジションが見つかる。アメリカに残した家族に仕送りをしながら約1年半が経過した頃、大手商社でのポジションの話を聞きつける。IT子会社を米国に設立する際の立ち上げグループの一員として採用後、アメリカ労働ビザを取得。家族で改めて再渡米し、カリフォルニア州から中西部へ車で大移動(約2200マイル=3540キロ)を果たす。
・しかしアメリカでの職場環境は想像を絶する劣悪さを極めていた。アメリカには住み続けることができたわけだが、私にとっては長いビザ奴隷の「暗黒時代」の幕開けでもあった。アメリカでの子会社立ち上げの仕事は過酷を極め、酷いときだと朝9時から夜中の2時ごろまでオフィスにこもることもあった。当時の直属日本人上司のCEOから酷いパワハラも受け、状況はさらに酷くなっていく。
・しかし3年間のパワハラに耐え忍んだあと、やっと別の日系現地法人への転職が無事決まり、逃げるようにして会社を去る。当時はパワハラ等劣悪な職場環境に身を置く一方で、同時に独立起業を模索し様々な情報を収集。
・新しい転職先では私を採用した社長が1年後に白血病で急逝。一方、その後は社内の状況が一変し、この頃からパワハラや迫害が酷くなり、日本の親会社からは口頭にて事前解雇通知を受ける。

2019年~現在

【念願のアメリカ永住権を取得。30年来の夢が実現する】

・結局、前社を含め会社からの
パワハラに約8年近く耐え忍んだ末に、念願のアメリカ永住権を取得30年以来の目標・夢を達成し、現在に至る。
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