最上輝未子プロフィール

薬離を目指す薬剤師
最上輝未子のブログへようこそ!

医者が処方したとおりに薬を作って渡すだけの病院薬剤師の仕事がイヤで、プロコーチとして独立したのが○十年前。

それ以来ずっと、プロコーチとして、1on 1のコーチングをしたり、コミュニケーションやコーチング、メンタルヘルスの研修をしてきました。

2008年からは、一般向けのコーチングスクールを提供するNPO法人を設立。最初は地元福岡で数名の仲間とともにはじめたのですが、今では東京・大阪・福岡・京都に広がり、全国約100名の仲間とともに活動しています。

そうこうしているうちに、年齢とともに、体のあちこちにガタが来始め、

人生100年時代を乗り切るためには、やはり体が大事だよね・・・と、2018年から予防医学の学びをスタート

もともと体のことには興味があったのと、プロコーチ・研修講師として、モチベーションや感情コントロール、ストレスマネジメントに関しても詳しくなっていたこと

そして、このCovid-19による社会全体の大きな変化もあって、

第二の人生は、自分のためにも、周りの人のためにも「薬離を目指す薬剤師」として、薬に頼らないしなやかな強さを持った心と体を作る”セルフマネジメント術”をテーマとした活動をすることにしました。

このブログでは、薬離を目指す薬剤師として手に入れた知識を使って、自分の身体で試した栄養・睡眠・運動に関するさまざまなこと

20年のプロコーチ活動の中で身につけた、セルフマネジメントのスキルと、目標設定のスキル、自分軸の見つけ方など

セルフマネジメント力をアップするためのさまざまな手法と情報、さらに、なぜ「薬離を目指す薬剤師」なのか?わたしの思いを書き綴っていこうと思います。

みなさんからの励ましのお言葉や、肯定的なコメントなどいただけるととてもうれしいです。

経歴

0歳

福岡県久留米市に長女として生まれる。天皇陛下がお生まれになった翌年、松田聖子の一歳年上です。

幼稚園時代

近くの幼稚園に通う。思い出すのは、園庭の鉄棒のすぐ横の地面に、棒で絵を描いていたこと。

小学校時代

久留米商業高校(野球が強い、今は名前変わってるかも?)の隣の敷地にある、福岡教育大学附属久留米小学校に通う。教育学部をもつ大学の附属小学校だったので、福教大から毎年ひとクラス10名単位の教生先生(実習のために来た大学生)が来た。わたしのクラスではなかったけれど、武田鉄矢も教生として来たのを覚えている。髪が長くて、ウルトラマンのまねしていた。

中学校時代

福教大附属小学校から同じく福教大附属の中学へ進学。小学校は、地域の名士(医師や商店主など)のお子様たちが、遠方から通ってきていたので、単純に家が近いから通っただけのごく普通の家庭のわたしは、話しが合わなくて退屈だった。だけど中学からは、成績が良い子たちが難関の試験を乗り越えてたくさん入ってきた。少し世界が拡がった気持ちがした。

高校時代

地域の名門進学校、県立明善高等学校に進学。自由闊達な校風の中で、楽しい青春時代を過ごす。ここに来て、小中学校がいかに苦しい環境だったかがわかった。

理系クラスに進んだので、50名中女子は10名という環境の中、勉学に励んだ。このとき実は心理学に興味があり、なんとなくかっこよさそうなイメージが強かった上智大の心理学部に行きたいと、進路指導室の教師に相談したところ、鼻先で笑われ(たように感じただけかもしれない)あっさり諦める。

そして、当時の花形職業のひとつであった、医師命の母から、当然のように医系学部への進学を強要される(というか、そういうふうに感じただけかもしれない)


いつも一方的で支配的だった母は、九大もしくは福大しか受けさせない・・・と宣言。しかたなく、旧帝大のひとつである九州大学薬学部合格を目指して頑張った。

大学時代

成績は良かったし、勉強も嫌いではなかったので、無事第1志望の九州大学薬学部に合格。舞踏研究会という、当時流行だった競技ダンスをするサークルに入会。4年間、舞研の仲間と青春を謳歌する。

教養部の時は、久留米から通っていたが、サークル活動もバイトもしたくて、必死で頼み込み、大学近くに下宿する許しを得る。お金がなかったので、クラスメートと2DKをシェアハウスした。今振り返っても、大学時代が一番楽しかった。このときのサークル仲間とは今でもつながりがある。筥崎宮の境内で、団体戦の練習したり、試合前にカツ丼食べに言ったり、男女ぐしゃぐしゃで狭い4畳半に雑魚寝したり(全くの色気なし)、とにかく楽しかった。

病院薬剤師時代

大学卒業後は、自宅からすぐのところにある、24時間救急病院の薬剤部に就職。これが間違いだった。そもそも、自分の就職に関して、じっくりと考えたり、自分が何が好きなのか、自分の強みや傾向を分析したりということを全くしていなかったので、一番自分の適性と合わないそころに就職したんだな・・・と今はわかるが当時はそんなこと、考えもしなかった。

とはいえ、新しいことは好きなので、大晦日から元旦にかけて、むちゃくちゃ患者が増えることや、夜中に薬剤部の裏から、ご遺体が運び出されることや、久留米に拠点があるその筋の方々が入院してきて騒ぎが起こることや、オーナーのドクターから連れて行ってもらう久留米の夜の街など、結構楽しんだ。当時はまだ若かったので、薬剤師仲間とともに、夜勤明けでスキーに行ったりもしていた。

結婚生活

高校時代から付き合っていた高校の同級生と23歳で結婚。なぜか30歳までに3人子どもを産むという目標を持っていて、見事に達成。30歳にして、3人の子持ちとなる。最初は、調剤薬局の薬剤師として働いていたが、夫が家業を継いだのを機に薬剤師としての仕事をやめ、帳簿管理などを手伝うようになる。今考えると、別に薬剤師をやめることもなかったのに、妻たるもの、夫の仕事を手伝わねばならぬ・・・という枠組みに縛られていた。

離婚

書くとあちこちに支障が出るので省略しますが、一番下の娘が中1から中2に上がる時に離婚。長男は就職したとき、次男はちょうど高校に進学したとき。ちょうどきりが良かった。子ども達全員が都合が良い今住んでいる地域に引っ越す。

プロコーチ活動開始

離婚しようと思っていたあたりから、コーチングの勉強を始めていた。とにかく稼がないといけないので、自宅でプロコーチ活動を開始。営業する方法がわからないので、当時としては珍しかったHPをホームページビルダーを使って独学で開設。まだコーチングが今ほど知られていない時代だったので、アッというまに検索トップになり、そこから、個人クライアントをたくさんとることができた。ラッキーだった。

NPO法人設立(2008年)

他と差別化せねば・・・と思い、基盤強化を謳った、NPO法人を数名の仲間とともに設立。最初は何もかもひとりでやっていたので、必死だった

予防医学の勉強スタート

年齢的にも体のあちこちにガタが来始め、110歳10月10日10時10分10秒まで生きる・・・と決めているので、これではいかんと、予防医学の勉強をスタートする。
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