「子供を飢えさせる戦争の原因」
2020/08/16
なぜ日本は対米開戦せざるを得なかったのか?
◆毎年終戦記念日が近づくと「戦争の悲惨さ」についてのテレビ番組や書籍などが話題を集めます。
しかし、重要なのは次の2点ではないでしょうか。
①なぜ日本は対米開戦せざるを得なかったのか?
⓶開戦したならば、なぜ日本は敗戦に至ったのか?
これらのことをしっかり分析し、総括しない限り、私たち日本国民の安全は確保されたとは言えず、国際情勢で常に不利な立場に置かれたままになります。
また、近い将来同様の間違いを犯すかもしれません。
①の主な理由としては、日本が資源・エネルギー調達のルートを絶たれたことが挙げられます。
⓶の主たる原因は、日本の学校教育と社会のエリート育成のシステムの歪みがもたらした戦略の失敗の結果と考えることもできます。
今回は①について考えたいと思います。
⓶については次回に考察を深めたいと思います。
◆毎年終戦記念日が近づくと「戦争の悲惨さ」についてのテレビ番組や書籍などが話題を集めます。
しかし、重要なのは次の2点ではないでしょうか。
①なぜ日本は対米開戦せざるを得なかったのか?
⓶開戦したならば、なぜ日本は敗戦に至ったのか?
これらのことをしっかり分析し、総括しない限り、私たち日本国民の安全は確保されたとは言えず、国際情勢で常に不利な立場に置かれたままになります。
また、近い将来同様の間違いを犯すかもしれません。
①の主な理由としては、日本が資源・エネルギー調達のルートを絶たれたことが挙げられます。
⓶の主たる原因は、日本の学校教育と社会のエリート育成のシステムの歪みがもたらした戦略の失敗の結果と考えることもできます。
今回は①について考えたいと思います。
⓶については次回に考察を深めたいと思います。
◆昭和16年(1941年) 当時の日本の資源調達は厳しい状況であったことは間違いありません。これはGHQのダグラス・マッカーサー元帥が1952年にヒッケンルーパー上院議員からの質問に対する回答の中で「もし原料供給を断ち切られたら1000万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」と語っています。
◆静岡県浜松市出身の光吉さん(87歳)は天竜川の上流の山奥で生まれ育ち、貧しい7人兄弟の末っ子として鉈(ナタ)の鞘職人の父と病気がちの母に育てられました。
元々家庭が貧しかったことに加え、戦況がどんどん悪化していくに従い、食べるのもが手に入らなくなりました。
昭和20年(1945年)の春には中学に入学しましたが、栄養失調で半年近く入院を強いられたそうです。
食料や衣類などの工業製品は、石油や金属、ゴムなどの輸入品の欠乏から次第に手に入らなくなりました。
そのため、光吉さんの学ランの金属のボタンは工業製品の原料として使われるために徴収されたそうです。
◆静岡県浜松市出身の光吉さん(87歳)は天竜川の上流の山奥で生まれ育ち、貧しい7人兄弟の末っ子として鉈(ナタ)の鞘職人の父と病気がちの母に育てられました。
元々家庭が貧しかったことに加え、戦況がどんどん悪化していくに従い、食べるのもが手に入らなくなりました。
昭和20年(1945年)の春には中学に入学しましたが、栄養失調で半年近く入院を強いられたそうです。
食料や衣類などの工業製品は、石油や金属、ゴムなどの輸入品の欠乏から次第に手に入らなくなりました。
そのため、光吉さんの学ランの金属のボタンは工業製品の原料として使われるために徴収されたそうです。
今後日本が不利な状況に置かれないために
◆日本が対米開戦をせざるを得なかったことは客観的事実としても、今後その様な状況に日本が追い込まれない対策を打っていくことが重要です。
特に資源・エネルギーの確保は国の生命線であり、工業生産のみならず、第一次産業の運営、食料生産を輸入に依存しない方法を確立していく必要があると思います。
現状では「既得権益」を握っている人たちの妨害もあり、自前資源の開発や安全な農業製品の生産の手法確立や普及も思うように進まない点もあります。
しかし、将来の世代に多くの負担を強いることがないように、破壊された土壌環境の再生と様々な未知の資源を生産する自然栽培の推進などを行い、今できることを一歩ずつ実現していくことが大きな変化の礎となるのではないでしょうか。
◆日本が対米開戦をせざるを得なかったことは客観的事実としても、今後その様な状況に日本が追い込まれない対策を打っていくことが重要です。
特に資源・エネルギーの確保は国の生命線であり、工業生産のみならず、第一次産業の運営、食料生産を輸入に依存しない方法を確立していく必要があると思います。
現状では「既得権益」を握っている人たちの妨害もあり、自前資源の開発や安全な農業製品の生産の手法確立や普及も思うように進まない点もあります。
しかし、将来の世代に多くの負担を強いることがないように、破壊された土壌環境の再生と様々な未知の資源を生産する自然栽培の推進などを行い、今できることを一歩ずつ実現していくことが大きな変化の礎となるのではないでしょうか。