管理人プロフィール

管理人 松尾葉月

認知症で要介護2の母を介護しながら、サイポン講師をしています!
20代、30代の頃は、自分の好きなことを仕事にできて、ラッキーな人生を満喫。そろそろ結婚しようかと思い始めた時期に、姪に知的障害があることがわかり、人生を見つめ直す契機に。
父が相続した田舎の土地に、姪を含めて障害のある人の役に立つ施設を作ろうと、両親と移住。
しかし移住2年後に、父がステージ4の前立腺ガンで余命宣告を受け、計画は頓挫。闘病生活を支えたが7年後に父は他界。
その後、母に異変が起こり、要介護2の認知症にと診断されて3年。思えば足かけ10年以上、両親の世話に明け暮れました。
介護と両立できる仕事探しに悪戦苦闘している中、2020年にサイポンと出会う! 自分と同じ境遇の人たちが希望を持てるように、サイポンの技術を普及させようと決心。

経歴

0歳~幼稚園

千葉県に生まれる。4歳半の頃、父の転勤で福岡県北九州市に引っ越し、幼稚園2年目の春、福岡市に転居。カトリック系、仏教系、公立と三つの幼稚園に通うことになり、異文化を体験。小児喘息を発症。

小~中学校時代

父の転勤先の福岡市で小学校入学。東京本社に復帰したので、四年の二学期は神奈川県、三学期に東京都世田谷区立小学校に転校。それなりに転校生へのいじめは体験したが、概ね環境や人間関係の変化には対応した。
中学は世田谷区立中学に進学。三年間、一度も転校せずに入学した学校を卒業できたのは新鮮な体験だった。
小学校時代はアレルギー性の小児喘息や悪化した盲腸手術、肺炎などで長期欠席があったが、中学時代は健康に。

高校~大学時代

渋谷区の私立大学付属の高校に進学。入学の目的は馬術部に入るためだったが、途中で体調を崩し、動物アレルギーと診断されドクターストップで退部。夢破れてショックを受けるが、中学時代からロック好きだったのでバンド活動の真似事に癒やしを求める。
大学は文学部英米文学科に進学。しかしジャズに目覚め、通称ジャズ研に所属。大学四年間は、部室か渋谷界隈のジャズ喫茶で過ごす。

OL~フリーランス~起業
 

22歳でレコード会社に就職。大学時代に培ったジャズの知識も評価され、洋楽部門の制作宣伝業務に配属、レコードジャケット制作関連でデザイン関係の仕事も体験。憧れのアーティストの担当となるが様々な要因で健康を害して、三年で退職。
英語の勉強が必要と痛感し資格をとって旅行業に転身、フランス資本のリゾート会社に26歳の時、再就職。企画部に所属したが、主にパンフレットやガイドブックの制作に関わる。会社がMacをいち早く導入指定他ので貴重な体験が得られた。
しかし体調不良が続き退職。その後は、翻訳を勉強し翻訳会社に所属したり、フリーランスなどで翻訳業務の経験を積んでいくことに。
33歳の時翻訳を主たる業務とする有限会社を設立。

田舎への移住

前職の関係者などの紹介から、少しずつ翻訳業務は拡がっていったが、デフレスパイラルの時代で、受注単価は下がる一方だった。個性を打ち出そうと、海外の占い関係の本の翻訳を検討していたら、自分自身がタロット占い師になってしまった。37歳の頃、実務翻訳の収入より、占いの収入が上まわったので方向転換を模索。
その時期、父が相続した田舎(茨城県)の土地が、地元の市長絡みで詐取されようとしていることが発覚。実は祖父が亡くなった22歳の頃から、この土地を巡る不穏な動きは続いていた。既に、姪に障害のあることはわかっていたので、世田谷の家を処分し田舎に移住。
音楽や旅行業の経験を活かした、町興し活動を始め、当初は順調だったが、移住して3年後、44歳の時に、父が末期の前立腺がんであることが判明。抗癌剤治療を続けていたが、49歳の時、東日本大震災に遭遇。

関西時代

49歳の秋、大阪で老人医療関係の仕事をしていた兄を頼り、両親と共に転居(原発じこの影響を考慮して)。
52歳の時、父が死去。
53歳、京都に転居。母が体調を崩した後、認知症的症状をみせ始める。
55歳、母が要介護認定。
57歳、占い師の仕事を20年ぶりに再開。対面鑑定とタロット講座を始める。
58歳の春、サイポンに出あう。サイポンを利用したサイト制作者になることを決意。
実はこの〇〇公式ブログ、
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