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今日は何の日「定子・立后」

2021/10/26

永祚2年(990年)
藤原定子
が立后。

一条天皇
 
の女御
藤原定子

が立后。


三后の位が全てふさがっていたため、藤原遵子が「皇后宮」、定子が「中宮」と称される。皇后・中宮並立の初例。

永祚元年(989年)父方の祖父である摂政兼家の腰結いで着裳、その時はじめて歴史の表舞台に登場する。

正暦元年1月25日(990月2月23日)、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内し、まもなく従四位下に叙せられ、ついで女御となる。

局は登王家電荷火❀殿(一説に梅壺、または両方とも)。

同年10月5日(990年10月26日)、皇后に冊立され「中宮」を号した。なお、定子は一条天皇の皇后として「中宮」を号したのであり、立后の載り詔にも「皇后」と明記された。

正暦元年当時、律令が定める「三后」のうち、太皇太后は3代前の帝の正妻・昌子内親王、皇太后は当帝の生母・藤原栓子、中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子であった。

定子の立后は無理なはずだが、道隆はその中に割り込んで定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させ定子の立后を謀り、また遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設し前代未聞の「四后並立」にしてしまった。

その結果、「往古不聞事」である皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いた。

(「驚奇少なからず」「皇后四人の例、往古聞かざる事成」『小石記』)。

また、道隆は弟の藤原道長を中宮う大夫に命じて定子を補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。世の人々は道長の態度を気丈な事であると賞賛した。
のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別により「一帝二后」としたが、その元を作ったのが定子の父道隆である。

同じ年の5月(6月か7月)には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は栄華を謳歌することとなった。
源氏物語の作者である紫式部が藤原定子に仕えていたことは広く知られていますが、強引すぎる後継者たちに心を痛めていたそうです。
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