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今日は何の日「松平竹千代・人質になった日」柿暮らし部

2020/11/09

天文18年(1549年)
竹千代は
一人離され
籠の鳥。

松平竹千代
人質となる。
天文18年
(1549年)
徳川家康、
今川家→
→織田家。

天文11年(1542)12月26日に家康(竹千代)は三河に生まれた。今川義元が絶頂のころで、戦国時代の真最中だ。父の松平広忠が三河国を支配していたが、東の今川義元、西の織田信秀に挟まれ、三河領国は、どちらに占領されてもおかしくない現状にあった。

広忠は年も若く、西三河の家臣たちには織田方になびく者もあり波乱万丈の領国経営に苦しんでいた。

天文16年(1547)織田信秀(信長の父)が大軍を岡崎に送って総攻撃の動きをみると、広忠は義元に援軍を求めた。義元は人質を要求し、広忠は6歳になった竹千代を駿府に送った。

竹千代護送役の田原城主戸田宗光は、今川に背くことなく忠誠を誓っていた男であった。

ところが戸田は、駿府に送るどころか竹千代を奪い取り、銭千貫文で織田信秀に売り飛ばした。

「三河物語」では永楽銭千貫文、「松平記」では百貫文とある)
竹千代を買った織田側は、再三広忠を脅すが広忠は要求に応ずるどころか、こう言った。

「息子を殺さんと欲せば即ち殺せ、吾一子の故を以て信を隣国に失はんや」と。

織田信秀はこれを聞いて「広忠良将なり」と感歎したという。こうして竹千代は名古屋の織田家の菩提寺である万松寺に預けられ、この寺で2年間あまりの人質生活を送っていた。

竹千代はその後、今川家の人質から脱して織田信長と同盟するが、この時点で織田信長とは出会いがあった。
草枕 兵どもの 舞の間に 今川,織田と 流転せしもに 
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