久しぶりに詩集をひもとく

2021/02/06
昔、好きな詩人がいた。
口語自由詩の旗手と言われる萩原朔太郎である。彼の最も有名な詩集と言えば『月に吠える』だが、そこに使われていた口絵や装画を担っていたのが、田中恭吉という画家。何となれば、つい先日彼の絵ととある美術展で再会して、随分久しぶりに『月に吠える』を引っ張り出して見た。
もう40年ほど前にほるぷ出版から限定販売された初版復刻版シリーズで、ページは袋綴じで2ページ読むたびにペーパーナイフで切り開かねばならなかったモノだ。現在の書籍のように化粧断ちというのをしていない造本で、現代人にはかなり不思議な代物だろう。もちろん私は当時ひと通り切り開いて通読しているので、今はもう綴じられているページは無い。綺麗に裁断されてるわけじゃないので、ページをめくるのがなかなか難儀なところも乙。
当時の紙質や活字印刷を再現しているので、現代のキレイなフォントと印刷物に比べればとても読みにくい。しかしそれが何とも味わい深く感じられて、この頃の本、詩集というものは特に、モノとしての質感が素晴らしいなあ、とつくづく感じ入った。
田中恭吉の版画がこの詩集にはふんだんに挿画されていて、この『月に吠える』の詩群と共鳴して一体となり、正に現代でいうところのコラボレーションとして成功している。
田中恭吉は肺結核で、作品を朔太郎に託したものの、詩集の完成を見ないで28歳で逝っている。余りの早逝ぶりに言葉も無いが、この頃死病と言われた結核を当時の多くの若者が患っていた。彼らの残したテクストや絵や芸術作品に触れると、そのギリギリの生命感覚に背中をどやされる想いがする。
戦争で若くして死んでいった戦没学生もそうだが、彼らはあと数日、あと一日、あと数時間を惜しんで生きた。明日をも知れぬ身を削るようにして生み出されたものにはやはりインパクトがある。大正昭和のこういう詩集、絵には言い知れぬ重みがあって、これこそがモノのモノたる存在意義だ。

現代の書籍や文庫本で『月に吠える』をタイトル、情報として読むのと、復刻版であれこのような造本のモノでそれに触れてひもとくのとでは、雲泥の差があると思う。
残念なのは、もうこういう造本はおろか、ハードカバーの美しい上製本ですら、今後は消えていく一方だろうということだ。
ちょっとオーバーかもしれないが、私としてはこういうある意味ものすごく贅沢な文化をリアルに体験でき、またそれを生み出す装幀者の末席に座ることが出来たことに感謝したい。


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