ユダヤから紐解く世界

  創世記から
ロシア革命ま

歴史の中におけるユダヤの影響力は、旧約聖書「創世記」から現代に至るまで連綿と続いています。

第1章 ロシアとウクライナの歴史

1-0  2022年2月24日ロシア特別軍事作戦

2022年2月北京冬季オリンピックが終わるや否や、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、歴史の流れを変える一つの転換点として世界史に刻まれることになりました。
「悪のプーチン」対「正義のゼレンスキー」の報道は、日本人にとっては非常にわかりやすいものです。日本のメディアは西側のメディアを鵜呑みにし、日本語訳にして流すだけです。日本のメディアの報道の自由度は、2021年は世界180か国中67位でコートジボアールの次です。日本のマスコミやテレビはまったく信憑性が無いことがわかります。

「なぜこのような侵攻を始めたのか?」「プーチンの真のねらいとはなにか?」
それを探るには、まずヨーロッパの歴史を紐解かねばなりません。

ヨーロッパ社会におけるキリスト教との深い関わり、反ユダヤ主義、さらには大航海時代以降の世界の支配構造がどのように形成されてきたのかを知る必要があります。これを知ることなしに、これからの世界の方向性を探ることはできません。

 アメリカの自国の歴史教育は大航海時代から始まります。(MA州 Arlington High Schoolでの例)一方、日本の義務教育においては、約13,000年前の縄文時代から始まります。

世界には、侵略、戦争、衰退、滅亡を繰り返す歴史の中で、もはや存在しない国や民族が多くあります。日本は建国以来現在まで、滅亡することなく長い歴史・文化を育んできた稀有な国です。
※中国(中華人民共和国)は建国1949年であり、歴史はわずか70年ほどです。

1-1  キエフ公国の誕生と滅亡

キエフ公国の滅亡(1240年)

ロシア1000年記念碑のリューリク像

ロシアの『原初年代記』によれば、スウェーデンのノルマン(北方人)のルーシ(海賊集団)の首長リューリクは、フィン人やスラブ人に招かれ、二人の弟とともに862年ノブゴロドに赴いて、東スラブ人を束ね建国したと伝えられています。
リューリクらの集団はルーシRus'と呼ばれ、これが後のロシアRussiaの語源となりました。
 
リューリクの死後,その子イーゴリの後見を託されたオレーグは南下して商業の地キエフに向かい、882年頃、ドニエプル川中流にある都市国家キエフ(現ウクライナ共和国の首都キーウ)を占領。ドニエプル川の水利を利用して経済を発展させ、南の東ローマ帝国との交易関係を打ち立てました。
10世紀終わりのウラジーミル聖公の時代に最盛期を迎え、東ローマ帝国の皇帝の妹を妃に迎え、キリスト教を国教としました。その後キエフ公国として13世紀まで続くことになります。

スラブ民族 中欧・東欧に居住し、東スラブ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラブ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラブ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)

キエフ公国の滅亡(1240年)

キエフ河川港

ウラジーミル聖公の死後、親族間の争いで公国は弱体化し、これに十字軍遠征とそれに伴う地中海貿易の活発化によるドニエプル川経由交易の衰退が追い打ちをかけ、キエフは衰退し、人々はノブゴロドやモスクワに移住していきました。そして1240年に、当時最強のモンゴル軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は滅亡しました。

1-2  モンゴル帝国による征服

タタールのくび木(13~15世紀)

アレクサンドル・ネフスキー(ウラジーミル大公 右側)とバトゥ(ジョチの次男)

征服後のモンゴルは人口も少なかったことからルーシの諸侯たちに忠誠を誓わせ、税の取り立てと軍役を彼らに任せた間接統治を行いました。
この時期のロシアは、キプチャク・ハーン国の一部となり、
モンゴルによるロシア支配の期間は「タタールのくびき」と呼ばれ、200年にも及ぶモンゴルの支配を受けました。
※タタールとはモンゴル系の一部族の名称

キプチャク・ハーン国

モスクワのユーリーとライバル関係にあったミハイルは、ウズベク・ハンにより処刑された。

モンゴル帝国のハーン国の一つ。チンギス・ハンの長子ジョチ(ジュチ)は、ロシア・東欧遠征によってキエフ公国を滅ぼした後、南ロシアから中央アジアに及ぶ広大な領土を支配しました。
※キプチャクとは草原の意味

文永の役1274・年弘安の役1281年

モスクワのユーリーとライバル関係にあったミハイルは、ウズベク・ハンにより処刑された。

モンゴル軍が南ルーシを制圧した37年後、日本では二度にわたって元寇(モンゴル)が攻めてきました。
しかし、台風の発生も日本に有利にはたらき、鎌倉武士らによって北九州でくい止めることができました。
日本においては、ロシアが受けたような200年間にも及ぶモンゴルの支配を免れることができました。

1-3  モスクワ大公国と東ローマ帝国の滅亡

モスクワ大公国 (1326年–1547年)

イヴァン3世

モンゴルは、忠誠と税を納める限り、宗教にはある程度寛容策をとったため、モスクワ公イヴァン1世はウラジーミル(現モスクワ北東近郊の都市)大公となり、1326年には最高の聖職者である東方正教会のキエフ主教をモスクワに迎え、キエフに代わってルーシの中心になり、モスクワ大公国となりました。
キエフ大公国はキエフからウラジーミル、モスクワと北へ移り、キエフ主教の居場所が最終的にモスクワに移ったことで、モスクワ大公国となったのです。

東ローマ帝国の滅亡 (1453年)

皇帝コンスタンティノス11世

ローマ帝国はカトリックの腐敗と権威主義がはびこると共にやがて東西に分裂し対立します。西ローマ帝国はゲルマン民族大移動と内部崩壊によって476年に滅亡します。

一方、東ローマ帝国は1000年近く繁栄が続いたのち、1453年にはイスラムの強大なオスマン帝国によって首都コンスタンチノープルが陥落し滅亡に至ります。

東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世は、後継として姪のゾイ・パレオロギナをモスクワに逃がし、ロシアのイヴァン3世に嫁がせました。

ローマ帝国の生存者たちは北に移り、新しいローマを再建し、正統キリスト教の復興をめざしたのです。このことから、モスクワ大公国をローマ帝国の継承者「第三のローマ」であることをイヴァン3世は宣言するわけです。

「神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともにわれ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」(コンスタンティノス11世/ビザンツ)

コンタスタンティノープルの戦いで、最後にこの演説で兵を鼓舞し、敵中に消えたといいます。アウグストゥス以来のローマ皇帝の継承者は絶え、紀元前753年に起源を発するローマ帝国は滅亡しました。

第三のローマ

第一のローマは堕落し、第二のローマ、コンスタンチノープル(ギリシャ正教の中心)が異教徒の手に落ち、モスクワこそが「第三のローマ」だという主張がロシアには伝統的に存在してきました。

東方正教会 Eastern Orthodox Church

『ウラジーミルの生神女』ロシア正教会で最も有名な
イコン(聖画像)モスクワ、トレチャコフ美術館所蔵

西方のローマカトリック教会が、ローマ教皇を最高位であるとするのに対し、ローマ教皇を認めず、教会は全て対等であるとしたのが東方正教会です。

ロシア・中東・東欧を中心とする15の自立教会の連合体で、15世紀にギリシャ正教会がオスマン帝国の支配を受けるようになると、主流はロシア正教会(ハリストス正教会)に移りました。

旧ソ連時代には多くの司教が殺害され、ロシア正教は地下にもぐりました。ソ連崩壊後に表に出たロシア正教とソ連時代に反体制の立場をとり続けた古儀式派は地下にもぐったままで、現代においてもこれは変わりません。
聖ワシリイ大聖堂 ロシア正教会の大聖堂  
モスクワの赤の広場 ユネスコ世界遺産

プーチン大統領とロシア正

プーチン大統領とキリル総主教

プーチン大統領はキリスト教徒で洗礼を受けています。
ロシア正教会は、旧ソ連時代には国家保安委員会(KGB)の管理下にありました。
2009年キリル総主教がモスクワ総主教に就任。ロシア帝国の領土はロシアの正当な勢力圏であるとし、プーチン大統領との緊密な関係に努め、2022年のウクライナ侵攻を支持しています。
2013年4月11日 ロシア・CIS ロシア  右:プーチン大統領 左:キリル総主教

プーチン大統領とは

2014.06.06ノルマンディー上陸記念式典 最後に広島原爆投下の映像で観衆の大きな拍手が沸き起こるその映像直後の、米国、ロシアの大統領のリアクション
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40204101 

胸で上下右左と十字を切るプーチン大統領(東方正教会の十字の切り方)前メルケル首相も拍手をしませんでした。
拍手する前米国オバマ大統領(ノーベル平和賞受賞者)

イギリス国教会(Anglican Church)1534年

エリザベス女王戴冠式

カンタベリ大聖堂

イギリス国教会と日本の皇室

ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に掲げられたガーター勲爵士
のバナー  右側に、皇室の菊花紋章が見えます。  

大正天皇
大正天皇は、イギリスによる植民地支配を回避する手段として、ガーター騎士団(前身はテンプル騎士団)に入団しました。なぜなら、女王より上に位置するのはイギリス国教会であり、その背後にあるのがガーター騎士団だったからです。
そして、そのトップ二人のうちの一人になりました。そのことが原因かどうかはわかりませんが、大正天皇は47歳で崩御されました。

敗戦後、昭和天皇とGHQのマッカーサーとの密約で、昭和天皇の従弟にあたる方が人質(持参金付き)として渡米されました。米国ではアンダーソン家と名乗り名家とのことです。
その見返りとして、日本は米国の一国統治となりました。ヤルタ会談において、北海道はソ連に分割統治する密約があったからです。

アンダーソン家のアメリカでの後見人はカンタベリ家(おそらく仮名)でした。歴代米国大統領が就任後、真っ先に挨拶に行くところがカンタベリ家とのことです。    

『語ることが許されない 封じられた日本史』保江邦夫著より

ヤルタ会談 1945年2月4日から2月11日

左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン 

ソビエト連邦クリミアのヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿で、連合国首脳会談が行われました。
日本の降伏にはソ連の協力が必要と、ルーズベルトはスターリンに領土の分け前を約束し、日ソ中立条約の一方的破棄と対日参戦を促しました。

しかし、ソ連の参戦前に日本が降伏。ソ連は慌てて満州、北海道に侵攻するも日本軍は激しく抵抗し、北海道を死守しました。最終的に北方四島はソ連の領土となり、今に続く北方領土問題となりました。

先人たちが命を賭して守った北海道ですが、現在は中国人によって静岡県の面積に匹敵する土地が買い取られています。ニセコは世界から富裕層がやって来ますが、高級ホテルは中国資本で、従業員も中国人。日本にお金は落ちません。ある地域では、学校が買い取られ校長も教師も中国人で日本語禁止。こういったことは、日本の過疎地で起きています。 2023年時点

1-4  モンゴル帝国の衰退とコサック国家

オスマン帝国のスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック
(イリヤ・レーピン、1880年)
 

モンゴル帝国が衰えてくると、モンゴルのハーンに対して独立戦争がはじまります。
南ロシア(現ウクライナ周辺)では、コサックという武装集団が自発的に蜂起し、これまで支配を続けたモンゴルを次々に打ち破ります。

ウクライナ・コサック 14世紀後半~

出陣へ(ムィコーラ・プィモネーンコ、1902年

現在のウクライナに当たる地域を治めていた武装自治集団をコサックといい、ウクライナはコサック集団国家と言えます。
コサックとは、「自由の人」・「冒険家」・「放浪者」・「番人」・「盗賊」・「傭兵」などの多様な意味合いを持つ、いわば武闘派集団でした。

コサックは、モンゴル軍の影響を受け、戦い方もモンゴルの騎馬戦法をとり、ファッションもモンゴル風の辮髪(べんぱつ)です。
そして、闘う集団であると同時に、実力のある者が周りから推されて統率者が決まる、いわば一種の民主主義が行われていました。
ここが、モスクワの皇帝独裁体制と大きく違うところで、現在に至るロシアとウクライナの気風の違いは、この歴史的背景によるものでしょう。 

ウクライナにおける反ユダヤ主義の始まり

モンゴルのヨーロッパ侵攻によって、ポーランドも住民が虐殺され、街が焼失、破壊されました。
モンゴルの撤退後、ポーランド国王(ローマカトリック)は、国を再建するにあたり、西ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人を難民として大量に保護しました。その結果、ヨーロッパ中のユダヤ人の情報ネットワークとマネーによってポーランドは繁栄し黄金時代を迎えます。
その勢いで隣国リトアニアと連合国家をつくり、無政府状態にあったウクライナ(辺境地の意味)に領土を広げました。統治するにあたって、ポーランド貴族たちは、ユダヤ人を使って税の取り立てをさせました。
正教会であるウクライナ・コサックたちは、カトリックの支配に対して武装蜂起し、ユダヤ人はポーランドの手先であるとし、反乱の度に多くのユダヤ人が殺され犠牲となりました。これがウクライナにおける反ユダヤ主義の始まりとなりました。

ウクライナ・コサックの指導者たち

 イエルマーク (1532年-1585年) 

イエルマークの軍勢はウラル山脈を越えて、モンゴルの残党シビル・ハン国を攻め滅ぼし、イヴァン4世に献上しました。シビルの名前がシベリアとして残りました。
東へと進みながらモンゴルの残党狩りを行い、やがて、オホーツク海まで侵攻してロシアの広大な領土を広げたのは、彼らコサックの功績と言えるでしょう。

 ボフダン・フメリニツキー (1595年-1657年) 

ウクライナ・コサックの最高指導者として、同じ正教会のモスクワと同盟を組んでポーランドに勝利しました。しかし、今度はモスクワによる支配が強まると、ロシアに併合され、傭兵にされ税を取り立てられ自由を失っていきました。ポーランドに勝利した英雄でもあると同時に、祖国をロシアに売った売国奴とも評されています。

イヴァン・マゼーパ (1639年-1709年)

コサック国家の復興を目指して領土拡大に成功し、正教会の発展に大きく貢献しました。しかし大北方戦争でロシア帝国のピョートル1世からスウェーデン・バルト帝国のカール12世に寝返ったことで職位剥奪され、ロシア正教会からも破門されました。
マゼーパの悲劇は早くから伝説化され、フランツ・リストによって交響詩「マゼッパ」が書き上げられました。

ウクライナ・コサックたちは、ロシアの歴史の渦中で傭兵として利用され、多くは戦死、餓死、処刑、強制労働と過酷な状況の中で消えていきました。

旧ソ連崩壊後は、ウクライナとロシアにおいて、政治家や市民団体によるコサックの復帰運動が開催され、プーチン政権におけるロシア軍の「愛国主義養成プログラム」では「コサックの歴史」の学習が軍の幹部養成学校では必須となっています。

ウクライナ・コサックたちは、ロシアの歴史の渦中で傭兵として利用され、多くは戦死、餓死、処刑、強制労働と過酷な状況の中で消えていきました。
旧ソ連崩壊後は、ウクライナとロシアにおいて、政治家や市民団体によるコサックの復帰運動が開催され、プーチン政権におけるロシア軍の「愛国主義養成プログラム」では「コサックの歴史」の学習が軍の幹部養成学校では必須となっています。

1-5   ロマノフ王朝の成立

イヴァン4世 
ミハイル・ロマノフ
モスクワ大公国のイヴァン4世が、カザン・ハーン(モンゴル帝国、キプチャク・ハーン国の分国の一つ)に勝利し、その記念として聖ワシリイ大聖堂が建てられました。イヴァン4世の死後、一時モスクワはポーランド軍に占領されますが、貴族たちは結束してポーランド軍を撃退します。
1613ミハイル・ロマノフを皇帝にし、モスクワを首都とするロシア国家、ロマノフ王朝が成立しました。
1917ロシア革命で、最後の皇帝ニコライ2世一家が銃殺刑となって終焉するまでの304年間、20人の皇帝がロシア帝国を支配しました。

     ロマノフの英語表記Romanovは、ラテン語系におきかえると、
     Roma Nova つまりNew Roma(新しいローマ) です。
     ロシアにとって、ロマノフ王朝は神聖ローマ帝国を引き継いだ
     「第三の新しいローマ帝国」という意味になります。

1-6  ウクライナ民族主義とポグロム

ポグロムで犠牲になったユダヤ人の子供たち
ウクライナ オデッサのポグロム 
ウクライナに民族主義が湧きおこり、帝政ロシアは、ウクライナの独立機運が高まるのを抑え込むため、その矛先をユダヤ人に向かわせました。ロシアにとって、ウクライナの独立は、豊かな穀倉地帯と、黒海沿岸の不凍港を失うことになるからです。それによって、多くのユダヤ人が弾圧、迫害、殺害、略奪され、これをポグロムといいます。

ポグロムが一番ひどくおこなわれたのがウクライナです。現在のウクライナにおける、ネオナチと言われるアゾフ大隊は、ウクライナ・コサックの反ユダヤ主義の行動の延長線上にあると言えるでしょう。※ネオナチ≠反ユダヤ
 

『屋根の上のバイオリン弾き』

ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は、東欧ユダヤ文学者シャローム・アライヘムの『テヴィエの7人の娘たち』を原作としています。帝政ロシア時代末期にウクライナで生活していたユダヤ人が、ポグロムに遭遇する物語であり、この作品には、ユダヤ人を迫害するウクライナ人の 暴動ぶりが描かれています。

1-7  皇帝アレクサンドル2世暗殺とポグロム

 アレクサンドル2世

 1発目の爆弾が爆発した直後の現場
1881年3月13日、ロシア皇帝12代目のアレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺され、犯行グループの中にユダヤ人がいたことで、もともとあった反ユダヤ主義に一気に火がつきました。

偽書『シオンの賢者の議定書』 (1890年代の終わり~1900年代の初め)

シオン:聖書に出てくる丘の名。「神の都」を意味する象徴的な言葉としても使われている。
帝政ロシアの秘密警察が捏造したものといわれ、反ユダヤ主義が利用している文書。ユダヤ人がフリーメイソンと協同してキリスト教の廃絶と世界征服を陰謀している証拠とされ、ヨーロッパ中に反ユダヤ主義が流布されました。
1897年バーゼルで行われた『第1回シオニスト世界会議の報告書』という形式をとっていますが、「議定書」の大部分がフランスの政治風刺家モーリス ジョリーが1864年に出版した『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』という本の写しであることが確認されました。
1993年、ロシアの裁判所は、極右国粋主義組織パムヤットが「議定書」を出版したことで反ユダヤ主義の活動を行ったと裁定しました。
※シオニズム:ユダヤ人を独自の民族とみなし,ユダヤ人差別・迫害の究極的克
服をユダヤ人国民国家の建設によって達成しようとする運動をいう。
※シオニスト:ユダヤ民族主義者。19世紀に始まるシオニズムの信奉者。

ロシア帝国の反ユダヤ政策「5月法」成立(1882年)

1881年の皇帝暗殺テロの事件後、翌1882年5月3日に反ユダヤ法が成立し、定住地域の15県において次のことが実施されました。
・町以外におけるユダヤ人の居住を禁止する
・町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の中止
・ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止

ユダヤ人制限居住地域(定住地域)は、相次ぐポグロムの影響で、革命活動の温床となり『地下活動』が広がっていきました。これが、やがてロシア革命へと続いていくのです。

ニューヨークはジューヨーク

1881年にウクライナ南部(黒海北岸)において発生した一連のポグロムは、ロシアにいるユダヤ人たちに大きな衝撃を与え、1881年から1910年までに、300万人近くのユダヤ人が、ロシアを離れて他国へと移住しました。
その内7割は、アメリカ合衆国を目ざしていきました。彼らは、ニューヨークのユダヤコミュニティを頼り、アメリカにおける、政界、官僚、財界、金融、法曹界、教育界、マスコミ、映画産業界と、あらゆる分野の中で、現在に至る重要な地位を占めるようになっていったのです。アメリカ合衆国の中枢はほぼユダヤの息がかかっているといってもよいでしょう。ニューヨークをジューヨークと揶揄(やゆ)されるのはこのためです。※ジュー jew:ユダヤ人
ユダヤコミュニティは、ADLという強力な組織が作られ、もはや彼らに逆らうことはできません。「ジュー」という言葉は、日本人に対する「ジャップ」と同じ差別用語の響きを持っています。

ADL ( Anti-Defamation League ) ユダヤ名誉毀損防止連盟
 

世界中の反ユダヤ活動を監視するユダヤ人団体 https://www.adl.org/
アメリカでは人種問題や反ユダヤ主義を犯罪として取り締まる法律があります。ADLはこれをフルに使って、自分たちは反ユダヤ主義の被害者であると裁判所に訴えるわけです。このADLの強力な組織の前にいかなる勢力も対抗することが出来ません。それゆえにADLは我が物顔にアメリカを闊歩するようになったのです。〈中略〉アメリカの総人口約3億人の中でユダヤ人口はわずか600万人であるにもかかわらず、ADLはアメリカにおける最大の、そして、おそらく最強の私設秘密警察であると言えるでしょう。
この機関は徹頭徹尾ユダヤの工作だと思われていますが、ADLは英国特殊情報部(SIS)の一部局であり、英国の外務大臣パーマストン郷ヘンリ(1784-1865 外相と首相を歴任)が創設した機関です。
シオニズムという運動自体も、パーマストンが英国のスパイ活動の武器として1843年から1860年にかけてつくり上げたものです。
ADLはブナイブリス(ユダヤ人文化教育促進協会)としてはじまり、プトレマイオス朝エジプトのイシス神再生密議を手本としました。パーマストンは、英国情報機関の一部門としてブナイブリスを計画し、この部門はアメリカ共和国を転覆破壊するという特別の使命を帯びていました。この使命は今日もなお生きており、現在のアメリカの状況をみれば、この計画は成功に向かっているといえます。        ソビエト代理人 H・キッシンジャー(シオニスト)より



元CIA幹部であったビクター・マーケッティ氏は、ADLについて次のように語っています。
「アメリカにおけるADLの力はすごいものがある。ADLはどのような人にでもしかるべき地位や仕事を与えることができ、逆にそこから引きずり下ろすこともできる。また企業をも成功させることも失敗させることも自在にできる。今日のウォール街はADLやいわゆるユダヤ人新興勢力のなすがままになっている。アメリカ国内に張り巡らされたユダヤ組織網を使うことで、ADLは議会のメンバーを文字通り当選させることもクビにすることも好きなようにできる力を持っている。マスコミの人達も、ADLとADLを支持する人々におびえながら仕事をしている