公
式HP
TOP
コラム
イベント
申込
公
式HP
TOP
コラム
イベント
申込
吾平山上陵
(初代神武天皇の御父君・母君御陵)
地域の歴史に思いを馳せよう!
神代三山陵の1つ
この地域の歴史をもっと学ぼう…と考え、まず最初に思い立ったのは神代三山陵の1つ「吾平山上陵」。
なんと言っても、2月11日の建国記念日は、建国神話(日本神話)を基に、建国を祝う日として定められている。それは、
古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とされているからであり、その御父君、御母君の陵墓が吾平山上陵である。
まずは2009年2月11日の吾平山上陵の建国記念祭を訪れ、その後ここ数年は、行けないときもあるが、毎月訪れるようにしている。その中から、歴史を感じ、季節を感じたりする写真をピックアップ!
吾平山上陵の近く
発見で特に注目
平成8年発掘され調査が続けられていた
吾平町上名の中尾6号地下式横穴墓から出土した大刀。
鹿屋市教育委員会は平成10年9月30日、ハート型の文様が施された「心葉形文」の象嵌がCTスキャンによって鮮明に確認できたと発表。ハート型の文様の象嵌が施された太刀は南九州地域では初の発見になるということで話題になった。
何よりも、天皇にまつわるこの吾平山上陵の近くで発見されたということに注目したい!今はそのレプリカが、串良町有里のふれあいセンター内串良歴史民俗資料室に展示してある。大隅半島の先史を紐解く、大きなカギとなりそう!
陵墓向い、明治4年災害で
神殿大破し仮御遷座のまま…
鹿屋市吾平町麓の市役所支所隣にある鵜戸神社。昔、吾平山上陵から川を隔てて山陵奉拝所の東、ひときわ小高いところにあった。山陵誌によれば「窟の前に小川流れたり、石川にていと清けし、川を隔てて葺不合ノ命を祀れる御社あり…」とされている。
明治4年風雨災害のためご神殿大破に帰し、御神殿修復になるまでの間、麓八幡神社(現在の支所南隣にあった)へ仮に御遷座なされ、同6年1月郷社の格に定められたが、ついに元の地へ御帰社はなく今日に至り、八幡神社境内は鵜戸神社境内になった。八幡神社は明治4年末頃に上名中福良へ御遷りになり今日に至っている。
鵜葺草葺不合尊と玉依姫の陵墓としての吾平山上陵は、この鵜戸神社が六所大権現と号したとされる七四七年から、ご遷座された一八七二年まで千年を越え陵墓近くの鵜戸六所権現とともに祀られ崇拝されてきた。
しかし今は、陵墓しての吾平山上陵だけが伝えられ、神仏の威あらたかな大権現とは切り離されてしまっており、大権現と併せたその心霊来格なる吾平山上陵が祀られていないのは、大変寂しいことである。この地に住む人々だけでなく初代天皇の御両親が祀られているという日本人としての心の拠り所として、神仏混淆された崇高な場所として、もっと地域が目を向け大事にしていくべきだろう。
神武天皇后、吾平津姫祀る
全国でも数少ない神社
吾平富士・
中岳の麓に鎮座する大川内神社。神武天皇の后である吾平津姫が祀られており、祭神は彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊、玉依姫、神倭伊波礼毘古命で、古くは地主権現と称していたとされている。
「神倭伊波礼毘古命は、鵜葺草葺不合尊の第4子で、御子15にして皇太子にたちたまい、ひととなりたまいて、元来阿多君の一族の御方である吾平津姫を后となし、手研耳命がお生まれになった。やがて神倭伊波礼毘古命は、日向健児をひきつれて東征し、大和に都して人皇第一代神武天皇になられたという。手研耳命は、父君の御東征に随伴され、いつも父君のお側近くにあって功をたてられたそうである。
吾平津姫は、この吾平の地にとどまりたまい、ひたすら夫の君や我が子の御東遷、御武運長久をお祈りなされ、一生をひとり淋しくこの吾平でお過ごしになられた」…と、この地では語り継がれ、この毘売こそ日本女性の亀鏡であると信じ、吾平の誇りとし、ますます崇め敬っている。
吾平津姫を祀る神社は少なく、鹿児島県史には、「姶羅郡の姶羅は吾平山上陵の吾平であり、神武天皇の皇后吾平津姫ご生誕地と考えられる」とある。元村社で、明治4年12月村社へ社格相定。麓大山祇神社が合祀されている。平成3年6月に吾平町神社会で再建されている。
飴練り、尊(鵜葺草葺不合尊)
に献せし者の宅地跡
飴屋敷跡は、鹿屋市吾平町上名車田のたんぼの中央にある。「三国名勝図会」には、「陵屈(吾平山上陵)より末方式二拾四町、松下門の田間に飴屋敷と呼ぶ所あり、上古飴を練り、尊(鵜葺草葺不合尊)に献せし者の宅地の跡称し、方一間許、葺原地を伝ふ、…大脇門の農民は、其子孫なりといふ」とある。
海神の娘であられる豊玉比売命は、火遠理命(山幸彦)の子を懐妊、出産の際、豊玉比売が部屋の中を見ないように懇願するも山幸は約束を破り、ワニザメに戻った妻の姿を見たために豊玉比売は海へと戻ってしまう。
この神話は当事者である初代天皇の神武へとつながる系譜の中で重要な意味を持っている。火遠理命は、母から山の霊力を受け継いだが、穀物の神である火遠理命はそれだけでは不十分だった。豊穣を左右する水の力が必要だった。そのため海神の娘と結婚し、その霊力を受け継ぐことになった。そして兄のものだった海の世界をも支配し、地上の支配権を手中にした。
そのときに豊玉比売が産んだお子が、神武天皇の御父、鵜葺草葺不合尊であり、その陵墓が吾平山上陵。
妃をお失いになされた命は、乳飲み子をどんなにして育てようかと悲嘆にくれておられた。そのとき一人の老婆があらわれ、母乳の代わりに飴をねって差し上げ、御子はその雨のお陰でご生育なされたそうである。飴屋敷跡の石碑には、地方行幸記念 昭和10年11月18日とあり、そのいきさつを記した看板も建てられている。
また、その碑の近くには、飴屋敷観音があり、「明治の廃仏毀釈の時にも災いを逃れ、現在も残っている」など昭和61年町教育員会指定文化財の看板もある。
その歴史に? 広葉杉巨木
吾平山上陵の参道には、杉の大木が何本も立ち並んでいる。その中でも、山陵事務所建物の先、左側にひときわ天に伸びる1本の大木、それも樹齢約400年とも言われる広葉杉(こうようざん)の巨木がそびえたっている。
広葉杉は、「中国を代表する杉として知られるマツ目ヒノキ科コウヨウザン属の常緑針葉樹の高木。中国の原産で、曰本に江戸時代に渡来、オランダもみ、琉球杉、広東杉」。あるいは「中国南部原産のスギ科コウヨウザン属の常緑針棄樹。大きいものでは樹高30㍍以上に成長する。目本には江戸時代後期に渡来」と説明してある。
しかし、吾平町誌前巻には、園芸学者玉利幸次郎が、昭和38年頃、吾平山上陵を参拝した時に、広棄杉(当時で樹齢約350年)がそびえ立っているのに驚嘆した…と説明してある。
どうなのだろう。当時で樹齢約350年ということが本当なら…、園芸学者なので間違えることはないと思うが、植えられたのは、江戸時代後期よりもっと前になりやしないか…?
吾平山上陵参道の中に、ひときわそびえ立つ広葉杉、日本全国には、広葉杉の大木は地域の天然記念物等に指定されているものもある。
ここの広葉杉、あまり話題にされることはないだろうが、行かれたときは、ちょっと目に止めてもらいたい。吾平山上陵自体も全国に誇れるものだが、この広葉杉、もっと注目されてもいいのだろう。
2013年元旦、さすがに人々…、駐車場もバスでピストン、賑わってました。
吾平山上陵の新緑がきれいでした!(2013/04/02)
鯉も気持ちよさそうに泳いでいました!(2013/04/15)
吾平山上陵に行く途中、グラウンドの下手にある「玉泉寺公園」。この日はフジがとてもきれいでした!
梅雨どきでしたが、緑がとても綺麗で、すっぽんの夫婦?が並んで甲羅干ししてました…(2013/06/21)
参道は豊かな緑に包まれ、陵墓も夏の日差しを受け…(2013/07/16)
お盆に帰省したファミリー?が、気持ちよさそうに水遊び。(2013/08/15)
この日は、鹿児島市内から大学生が集まり、吾平山上陵など視察。ウガヤくんらが出迎えその歴史を学んでいました。(2013/09/11)
凛とした参道です…(2014/04/15)
苔むした橋の石、個人的には好きな風景ですが、今は、綺麗にとってあります…。(2014/07/07)
冬の吾平山上陵もなかなか風情があります…(2015/01/15)
この日はGW、チャリで来て帰りに玉泉寺公園に寄りました。睡蓮の花が綺麗でした。自転車のハンドルのところに広葉杉のマツボックリ…(2015/05/04)
冬場㊤と初夏とはこんなに違いがあります…。(2015/05/24)
この日もチャリで来ました…(2016/05/31)
インバウンドの走り、
鹿屋市共栄町の㈱エーアイエーが企画した
「Visit Osumi」。
日本に留学中の外国人学生が、鹿屋市並びに大隅半島の企業の見学や、自然豊かな公園、パワースポット等を訪れ、情報発信。九州で学ぶ外国人留学生14人が、鹿屋大隅を満喫した。(2016/11/16)
右は広葉杉の樹勢です。(2017/02/11)
苔のむした石塀にも風情が…(2017/10/29)
冬場の少し天気の悪いときでしたが、それぞれの表情が…(2018/01/15)
やはり春の新緑の頃が一番気持ちがいいです…(2018/04/16)
鹿大学生が吾平山上陵などをSNSで発信するため訪れました。(2019/01/20)
この日は、いやに参道が綺麗で、思わずパシャリ…(2019/03/15)
新しい元号「令和」がスタート
新天皇が即位された日、吾平山上陵にも多くの市民が駆けつけお祝い。
気持ちも新たに
新しい元号「令和」がスタートした。参拝者と記帳所㊤、お祝い饅頭とお茶会㊥、ウガヤくん令和バッジ、小鹿焼酎のふるまい、吾平山上陵の歴史写真展、中西鹿屋市長も訪れ市民と談笑㊦(2019/05/01)