大隅半島のルーツを紐解く 20190525
日本書紀編纂1300年の年を迎えるに当たりもう一つ。記紀の国生み神話のなかで、古事記では九州の中で筑紫国、豊国、肥国とともに熊曾国が南九州一帯の大国として語られているにも拘わらず、他方でヤマトタケル神話や景行天皇九州征伐神話のなかで、熊襲つまり南九州が大和王権に服従する神話として語られている。
さらには神武東征では、南九州から神武天皇がを大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話として、吾平山上陵など南九州をルーツとされていること。そうであるにも拘わらず、南九州の熊襲国、クマソが蛮族として扱われていることが、国生み神話を読み解くに当たっての矛盾に似た問題点として沸々と沸き起こるのである。
それこそ先週書いた、先日届いた本『古事記と日本書紀はトリック小説である』ということを、邪馬台国や卑弥呼の視点からでなく、『熊襲』という視点、それも南九州、大隅半島、肝属川河口から支流にあたるまでのエリアで考えみてはどうか。日本の歴史を神話として語られる中で、史実として重なっていくこと、史実とは違うこと…を、舞台となったその地域の中で、今一度解明していかないと、この疑問は解けない…。
それも記紀のなかでの解釈でなく、魏志倭人伝などを絡めての解釈でなく、くどくなるようだが、吾平山上陵の存在や象嵌装太刀、古墳群とをもっと歴史の中で位置づけをし、それを日本の歴史の表舞台へと押し上げていくことが、今この地に住む私たちの使命ではないかと思う。大げさだが…。
そのことが、新天皇が御即位され新元号となり、日本書紀編纂1300年という節目の中で、初代天皇にまつわる史跡を多く持ち、初代天皇の御父君、御母君の陵墓を持つ地域で、そのルーツを知り、地域を紐解いていくことに繋がり、それが地域の宝、資源として発信できることとなる。
さらに、大隅半島の先史、古代の歴史をたどっていくときに重要なのは、中世における肝付氏と禰寝氏存在であり、その中でもずっと気になっているのが、肝衝難波(きもつきのなにわ)の存在。大隅肝属郡の隼人の首長と説明がなされているものもあるが、ちょうど1300年前というころに存在し、続日本紀によると700年に「肝衝難波(きもつきのなにわ)、肥人等を従え、兵を持ちて覓国使・刑部真木等を剽劫す。是に於いて筑志の惣領に勅し、犯に准じて決罰せしむ」とある。
戦国大名としての肝付氏。薩摩掾に任命されて下向した伴兼行の子、行貞。またその子兼貞が大隅国肝属郡の弁済使となり、その子の兼俊の代に郡名を取って肝付を名乗ったとして、その後の歴史が語られている。
しかし、郡名というよりも、この肝衝難波の存在はどうなるのか。
伴氏が肝付氏を名乗ってからの肝付の歴史が多く残されているが、それ以前に漢字は違うがものの「きもつき」を名乗っていたその歴史を考えてみる。鹿児島が薩摩の国、島津の歴史とともに語られ、鹿児島の歴史は島津の歴史と勘違いするほどだが、それ以前について、これら古墳や吾平山上陵などの存在を照らし合わせ、これに神武東征などの神話を重ねてみると、やはり、大陸から黒潮に乗って来た人たちとの交流や影響、あるいはその人たち自身が歴史を作り、大きく栄えていた時代があり、ただ、敗者の歴史として熊襲として蛮族扱いされ記紀に残され、それが日本の歴史として教科書にも載るようになった。
大和朝廷ができるそのルーツとしての神武東征、南九州が出発点として記され伝えられてきたこと。その大和朝廷が生まれる前後でのこの大隅半島の歴史を考え、もっと遡って今、弥生時代や縄文時代の遺跡が新たに発掘される中で、王子遺跡や他の遺跡の存在、地下式横穴墓の存在を考え、1300年という歴史、それ以前の大隅半島の姿をイメージしてみると、とてもワクワクする。
ここ数年、こうしたことを繰り返し発信し、大隅学を始めようと言っているが、私自身の問題もあったりで、なかなか進まない。今、このタイミングだとは思うのだが…。
1300年後の今、古事記と日本書紀のトリックを解明し、大隅半島の歴史を表舞台へ…、独りよがりなのか…。(新)
最近、強く思うこと 20190518
毎日、多いときは30~40枚届くFAX、同じように届くメール。その中で「『古事記と日本書紀はトリック小説である』ことの証明」、「邪馬台国の謎は〈卑弥呼姉妹〉で解ける!」と題した本を、書評のため必要な方は申込を…とあったので、気になり申し込んだ。
先週「日本書紀編纂1300年だが…」と書いたばかりだったので、これは読んでみる必要があると思ったからであり、それが昨日届いた。
まだ目次と、気になるところを中心に目を通したばかりで、内容については、あまり詳しく書けないが、新天皇がご即位され、令和の新しい時代を迎えたばかりで、初代神武天皇にまつわる史跡等が多く、その御父、御母君の陵墓に治定されている吾平山上陵のことも書いてあるのではと、とても興味をもってページをめくった。
思った通り、欠史八代…、古事記や日本書紀において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代は、現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解…が述べてあり、それはそれで面白く目を通した。
それに加えて、天照大御神の存在まで否定するような記述もあった。ただ、各地域の神社の多くは天照大御神が祀ってあり、日本人の心の拠り所となっていると思うので、それは如何なものかと感じた。
それはさておき、欠史八代を論じる文献等も多い中、神武天皇の存在は否定されることはほぼない。この本の中でも、九州から神武東征…ということが書いてあり、日本の歴史の中では南九州から奈良へ神武東征が行われた…と理解されているのか。
その南九州とは鹿児島か宮崎、鹿児島でも霧島かこの大隅半島ということになっており、肝属川沿いには、神武天皇にまつわる史跡も多く、吾平山上陵の存在もあって、この地域がもっとそうしたことの情報発信が必要だと思うし、この地域の中でそこを話題にもっとしていくべきだと、この令和のスタートで感じているところであって、こういう文献接すると逆になおさらそんな思いが募る。
日本神話自体を否定するような論調もあるなかで、だからこそそこを論じたがらない風潮もあるようだが、九州あるいは南九州から神武東征というのは、この文献も含めて認められているところであり、そうした中での吾平山上陵の存在がある。
戦後、天皇もご御行幸されており、肝属川沿いに存在する神武天皇にまつわる史跡、それはそれで地域が発信していかないとならないと最近、強く思うようになっている。
これら本のように、それが神話として、否定されることもあるのかもしれないが、そうしたことも認めながら、もっと私たちが意識していかないとならないのは、志布志湾沿いに立ち並ぶ古墳や地下式横穴墓の存在、そこから出土した数々の遺物、特に吾平山上陵近くの地下式横穴墓から出土した象嵌装太刀の存在だ。
百歩譲って、神話を否定する立場に立った場合でも、それとは別個の議論で、この象嵌装太刀や古墳の存在についてこの地域の中でもっと検証していくべきであり、現にこの大隅半島にしっかり存在していて、見に行こうと思えばいつでも観ることができる。だからこそ古墳時代を中心に弥生、もっと遡り縄文時代の大隅半島民は、どういう生活をしていたのか…ということを地域の中でもっと検証していかないといけないと感じている。
それは、こうした本が出版される中で、それに負けないくらいの思いを込めて、主張していかないとならない…、そんなことをつらつら考えながら、この本に接した。
遺跡の発掘等には、地域を開発していく上で邪魔になる、こういう話をしていると、そうした声に多くぶつかる。
地域の発展のためには、そうした考えももちろん必要だし、全国同じように日本全体が発展していく時代はそういう発想が主流だったかもしれないが、地域独自でその地域を個性を持ちながらしっかり発信していく時代に、もっと違う発想が求められているのではないか。
今、そういう時代になってきていると思う。大事にしたい地域の宝、資源、もっと日常の中で意識していくことが必要なのか。
昨日も吾平山上陵に出向いて、ガイドの前村さんと話をしていると、鹿児島市内から来たというご夫婦が来られ、熱心に説明をしておられた。もっとこの地域の人たちが、もっと身近に感じて欲しい…、ちょっと寂しい思いをしている…。(新)
日本書紀編纂1300年だが… 20190511
この年代になると、自分の今後の人生をどうするか、少しずつ考えるようになる。
60歳になってからそれなりに、何歳まで生きられるか分からないので、その後5年単位でもできることを決めようと思っているが、この大きく変わり揺れ動く時代に、いったん決めたことにも気持ちが揺れてしまう。
ただ、易不易ではないが、変えていいことと変えてはいけないこと、それらは自分の生き方として決めることなのだろうが、この年になると若いときのように動けないので、自ずとやろうとすることが狭くなってくる。
それも社会的なことと、個人的に人間的に足りないことなど考えていくと、自分自身をもっと変えていかないといけないという思いと、変えてはいけない大事なものにもっと集中すべきなどの思いが交錯する。
そうした中で、新天皇が即位され新元号が始まり、その様子が報道される中で、ライフワークとしての自分の今後を改めて考えてみた。
特に神武天皇にまつわる口伝や史跡などをこれまで訪ねたときに思ったこと、またこの地域の古墳や象嵌装太刀などの遺物を重ね合わせてみると、古事記や日本書紀が神話として伝えられ、史実ではないと言われることとは別に、この大隅地方の古墳時代や弥生時代をもっと地元で発信していかなければ…という思いが募る。
新天皇即位の日には、吾平山上陵を訪ねたが、小伊勢と言われ凛とした参道も日頃はひっそりとしているのに、この日は大勢が訪れていた。
初代神武天皇の御父、御母君の陵として、改めてその歴史を踏みしめて歩いてみた。
神話に関しては、様々な説や考え方があり、それを信じるか否かは、その人それぞれだが、720年編纂の「日本書紀」と、927年に完成した「延喜式」には、吾平山上陵の記述があり、今は宮内庁により天津日高彦波瀲武??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の陵に治定されている。
2012年には古事記編纂1300年として、古事記にまつわるという各地域は、それぞれ話題にして催しが行われ、私もそのころからなるべく吾平山上陵を訪れるようにしている。
それは、この大隅半島においての先史から古代の歴史を知り、訪ね、学んでいくと、発信すべきものがたくさんありもったいないと感じるからだ。
この時代、さまざまな情報が流れ溢れているので、そっちに目が向いてしまうが、もっと地域の中で足下を見て、地域の資源として大事にしたいと思う。
古事記編纂1300年はそれなりに話題になったが、吾平山上陵が記してある日本書紀は、来年が編纂1300年となる。東京オリンピックの年なので、そこに話題が集中しているが、吾平山上陵があるマチとして、もっと地域の中で話題になって欲しい…と思う。
この地域の歴史を調べていくと、天皇にまつわることも含め神道に興味を持つようになったが、それは八百万の神にあるように、田の神や水神、山の神など生活の中にそれぞれの神が存在し、特にこの地域は、高隈山系や国見山系など、古くから山岳信仰が盛んな地域でもあった。
そこに踏み込んでいくと、次は修行を行う密教などにも興味がわいてくるが、自分の今後の生き様も含めて、特に自然の中で自分を見つめ直すと、無我や無常、空(くう)などと仏法にまで及んでくる。
そこまでくるとちょっといき過ぎ…なので、ちゃんと足下にある吾平山上陵をもっと見つめ直して、これにその近くで発見された象嵌装太刀と地下式横穴墓、古墳などとの結びつきを自分なりに調べ、発信していきたい。令和の始まり、日本書紀編纂1300年で…。(新)