20代の頃からを振り返り、人生を反省する その1

2020/08/16

やりたい仕事もいいけれど、
将来のこともしっかり考えよう


10代の頃のなりたい職業はアナウンサーだった。

でも高校の授業をろくに聞かずバイトばかりしていた自分は、
ギリギリの成績で3年間を終えた。
なので大学に行くなんて選択肢はなかった。

実家の家業も失敗しお金がないこともわかっていたので
私立の学校も無理だとわかっていた。

アナウンサーは大卒が必須条件なので、
この時点で難しいことはわかっていたが、
もしかしたらなんとかなるかもしれないという気持ちで
TBSのアナウンス学院に入って2年ほど学んだ。

が、もちろん、大卒じゃないと相手にされない職業なので、
局アナという道のスタート地点に立つことすらできなかった。

しかし、地元の新聞に
ラジオ番組制作会社の求人が載ってると母から連絡があり、
応募してみたらあっさり通って就職が決まったので、
東京の部屋を引き払い、実家に帰ることに。

昭和の終わり頃のラジオ番組は、
今のようなワイド番組は少なく、
10分〜20分程度の番組がひたすら続いているような編成だった。

そんな細かい番組を作る会社に入社して、
毎日真面目に働いていた。

また入社してすぐ、アナウンスの経験があるということで
CMを読むことにもなった。

ラジオのCMは20秒のものが多いのだが、
そのナレーションをいきなりやらせてもらった。

正直、自分でもうまくないなとは思ったが、
社長のOKが出て、すぐにオンエアされることになった。

局アナにはなれなかったけれど、
自分がやりたいアナウンサーのような仕事ができて、
とりあえずは嬉しかった。

少し希望が見えてきた21歳の夏。
 

ラジオ業界の闇 的な話

ラジオ

ラジオの業界はマスコミの中でも低賃金である。

局アナの場合は、それなりの収入があるのだが、
下請けの番組制作会社なんて、
とんでもなく安い金額で請け負うので、
そんな会社で働いても給料は恐ろしく安かった。

バブルが来る前の頃だが、給料は10万円程だったように思う。

これは地方だからというわけでなく、
東京でもラジオしかやらない制作会社だと
月10数万円で働いている人を知っていたので、
そういうものなんだと思っていた。

アナウンス学院時代にTBSでバイトをしていたのだが、
その時にそんな話を社内で聞いていた。

名前もそこそこ有名な制作会社だが、
ラジオに関しては相当安いのが相場で、
今でいうまさにブラック企業的な働き方をしていた。

それでもそんな仕事を辞めないのは、
みんなラジオという仕事が好きだからだ。

だからTVのADだったら好きでもなくやっている人がいたが、
ラジオに関しては、

『ラジオの制作が好きだから』という理由だけで
一生懸命働いている人が多かったように思う。

勘違いして欲しくないので補足するが、
ラジオ関連で働いている人が全て低賃金ではない。

あくまでも外注の制作会社、美術会社だけで、
東京や大阪の有名パーソナリティはもちろん、
局の社員はそれなりの給料をいただいている。

言ってみれば、そのしわ寄せのため
外注の会社には安い予算で番組を作らせているという構図だ。

足下を見られても、
せっかく掴んだラジオの仕事を手放したくないと思い、
当時県内で一番大きな制作会社に移ることにした。

それでも給料は13万ほどだったように思うが、
実家から通えていたことと、
なんと1時間の深夜放送のパーソナリティをすることになり、
それ以外の辛い仕事もたくさんあったが、
続けることができた。

プロフィールにも書いたが、
担当していた番組は、当時中高生に大人気で、
公開放送をした時も2000人を集めるくらいの番組だった。

その功績はもちろん自分の喋りや人気だけではなかったが、
若かりし自分は結構いい気になり
少し天狗になっていたように思う。
 

理不尽な経営者にガマンの限界が


番組は2年ほどで終わって、
自分はまた制作や音響の仕事だけをするようになった。

特にイベントの仕事が多くなっていったのだが、
音響や照明の機材というのはとっても重く、
まさに力仕事だった。

それに出演者と違って、
裏方のスタッフは誰よりも早く現場に行きセッティングして、
終了後も大抵は深夜になるまで片付けをして
最後に現場を後にするというのが当たり前。

元々アナウンサー志望だった自分からすれば、
こんな裏方の仕事は正直面白くなかった。

それに加えて会社の社長がとてもワンマンで
理不尽なことをいう人だったので、

その会社はなかなか社員が安定せず、
誰かが入っては辞め、入っては辞めの繰り返しだった。
それこそ給料が高ければ話は別だけど...。

自分もしばらくは我慢したが、
当時結婚したい彼女ができたこともあり、
会社を辞める決意を固めた。

もう少し給料のいい会社で働こうと思ったのだ。

それで県内で一番大きなレコード屋さんに転職した。

その2に続く
レコードショップ

 

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