20代の頃からを振り返り、人生を反省する その2
2020/08/17
やりたい仕事もいいけれど、
将来のこともしっかり考えよう
将来のこともしっかり考えよう
昨日のブログの続きです。
読んでいない人はこちらからお読みください。
会社を辞めた年に元号が昭和から平成に変わった。
平成元年の夏、某レコードショップを経営する会社に入った。
その会社は県内外に楽器店や音楽スタジオ、
ライブハウスなども経営する音楽の専門店だ。
自分が配属されたのは駅前の本店で一番売り上げの大きい店だった。
その頃はちょうどレコードからCDに切り替わった時期で、
今はもう見ることのない縦型の8cmシングルCDが
ミリオンセラーを連発していた時代。
扱いが面倒なレコードより、
簡単でコンパクトなCDの登場は音楽業界を変えていくのだが、
実はその裏でCDがレコードショップに大きな変革を迫ることになる。
平成元年の夏、某レコードショップを経営する会社に入った。
その会社は県内外に楽器店や音楽スタジオ、
ライブハウスなども経営する音楽の専門店だ。
自分が配属されたのは駅前の本店で一番売り上げの大きい店だった。
その頃はちょうどレコードからCDに切り替わった時期で、
今はもう見ることのない縦型の8cmシングルCDが
ミリオンセラーを連発していた時代。
扱いが面倒なレコードより、
簡単でコンパクトなCDの登場は音楽業界を変えていくのだが、
実はその裏でCDがレコードショップに大きな変革を迫ることになる。
レコードショップは万引きとの戦い
店頭に立ち、最初何をするのかといえば、
なんと思いもつかなかった『万引きを見つけること』だった。
レコードだとLPは直径30cmもあり、
盗もうと思うとそれなりに大変だったのだが、
CDになってからは誰でも何の苦もなくできるようになってしまった。
カバンに入れるのも簡単だし、
男子高校生くらいだと服の袖に8cmシングルを隠すことも
できるようになってしまったのだ。
なのでフロアにいるスタッフは
日々、万引きされないかを見て回るのが仕事だった。
(万引きの被害額はかなり大きくて実際に聞いて驚いたものだ)
当時はまだ万引き防止用の機械も導入し始めたばかりで、
レコードの時には必要なかった
レジを通さず店外に出るとアラームが鳴る商品タグを
1枚1枚に入れるという作業もしなければならなくなり、
とにかくレコードショップの作業量が無駄に増えたのである。
万引き防犯用のシステムも当時はまだ穴だらけで
システムだけに頼るなんてことはできず、
店内で見張ることは必須だった。
機械と人間の目でチェックしても万引きというのはなかなか減らず、
何度も店の外まで走って追いかけたこともある。
捕まえたら捕まえたで、こちらも気分がいいものではないし、
時にはお年寄りが盗んだり、
子供連れの母親が盗んだり、
もう誰も信じられなくなるくらいで、
そのせいですぐにストレスで胃をやられて、胃潰瘍寸前になった。
なんとかそれ以上酷くはならなかったけれど、
それから10数年は胃の調子が悪く、
何度も胃カメラを飲むことになる。
今は防犯カメラや万引き防止タグなども進化しているが、
今も昔も販売の仕事は万引きとの戦いと言っていい。
だから心ある皆さんは、万引きは絶対にしないでいただきたい。
軽い気持ちですると、
思っている以上に大きな後悔をすることになる。
本店から移動、そしてラジオが再び
しばらくすると本店から
一番新しいショッピングセンター内にある店に移動になった。
社員2人とバイトが1人という小さい店だったが、
しばらくして店長に昇格して、
それなりの責任感も覚えるようになった。
と同時にその頃、
地元FM局での番組をスポンサードすることになった。
うちの店で売れている曲の50位までを紹介する
オリジナルのヒットチャート番組だ。
パーソナリティにはCDのライナーなども書いている
地元で活躍していた音楽ライターの人が担当していたのだが、
自分がラジオの経験者だということもあり
アシスタント的なポジションで番組に参加することになった。
まさかレコードショップに入って
ラジオができるとは思ってもいなかったので
それはもう嬉しかった。
毎週収録のためFM局に行くのだが、
行くのは店舗を閉めた後なので
番組収録が終わるのは深夜になることは珍しくなかった。
当時は当たり前のサービス残業であったけれど、
ラジオでしゃべられることが嬉しくて、
お金のことなど考えもしなかった。
ところでさすがFM局と思ったのは、
今までのAM局と違ってミュージシャンとのつながりが強く、
歌謡曲、アイドル、演歌が主となっていた選曲から、
洋楽も含めたまだ世に知られる前の新しい音楽を
たくさん知ることができるようになったこと。
音楽の知識が一番増えたのは、この頃だったように思う。
デビューしたてでまだそれほど売れていなかった
槇原敬之やスピッツの草野マサムネに番組に出てもらったり、
生の音楽を実際に観に行ってこいと
THE BOOMの武道館ライブに招待してもらえたりした。
ちなみにレコード会社の招待でライブを見ると
その後の軽い打ち上げにも参加することができるので
ライブ終了後の生のミュージシャンと話すことができるのだ。
まだまだ若かった自分はそんな場で緊張して
あまり話すことができなかったが、
今から考えると結構もったいないことをした、と思う。
そんなわけで、
その他にもたくさんのミュージシャンに実際に会うことができた
美味しい時代だった。
(ちなみに今はほとんどなくなったように思うが、レコード店にもライブの招待が定期的にあり、大阪や名古屋で行われる新曲発表のコンベンションやイベントにも何回も出張という名目で出かけることができた。CDの売り上げがウハウハだった頃だから、レコード会社も宣伝費を多く使えたのだと思う)
でも内臓の調子が限界に
その後、予算の関係で
スポンサーをしていたFMの番組は終了してしまったが、
本来の業務であるレコードショップ、
いやもうその頃はCDショップだったが、
小さい店から本店の次に大きいショッピングセンター内の
もうひとつの店舗に移動になった。
店の大きさも倍以上だし、
売り上げもスタッフも全て数字が増えるので、
プレッシャーは相当なものだった。
それに加えて、
万引きのチェックも引続きしなければならないので、
悪くなっていた胃の調子が限界に近くなり悲鳴をあげた。
入院までには至らなかったが、
仕事を続けるのは難しいと判断して
CDショップを辞めることになった。
ただ次の仕事は決まっていない状態で。
その3に続く