20代の頃からを振り返り、人生を反省する その3

2020/08/20

やりたい仕事もいいけれど、
将来のこともしっかり考えよう


この話は、下記のブログの続きものです。
読んでいない人はこれからお読みいただくと
話がよりわかると思います。

レコードショップの仕事は毎日好きな音楽に触れることができ、
楽しんでできた。

それに俗にいう変わった人・面倒な人が
ほとんどいない会社だったので人間関係もすこぶるよく、
とてもいい会社だった。

欲を言えば、もう少し給料が高かったら
もう少しがんばったかもしれないなとは思う。


 

ということで、内臓をやられたので
レコード屋さんを辞めたのだが次の仕事は決まっていなかった。
 


少し休養したいという気持ちもあったが、
貯金があったわけでもないので、働かなくてはならない。

ところで今まで一切触れていないが、
平成2年に同僚だったフリーの女子アナと結婚をした。

彼女がフルタイムではなかったが働いてくれていたので、
家としては収入が全くの0にはならなかった。

がしかし、働かないわけにはいかないので、
知り合いのイベント会社にお願いして
バイトだがしばらく働かせてもらうことになった。

そのイベント会社は県内で最も大きな会社で、
扱うイベントも大規模なものが多く、
県庁所在地で行われる夏まつりなんかも
まとめて企画立案から舞台の進行、音響照明など
舞台装置など全てをプロデュースするような会社だったので、

ステージ作り一つにしても
スピーカーが自分より遥かに大きいものだったり、
アンプなんかも一人では動かせないような重さだったりして、
腸の次は腰をやられてしまういそうな過酷な職場だった。

今まで働いていた制作会社でもイベントは扱っていたが、
地区の村まつりとか、それほど大きなものではなかったので、
この会社が扱うイベントは大変ではあったがどれも楽しかった。

 

また地元の放送局のイベントもほとんど担当していたので、
現場にいると放送局の人たちと顔を合わせることも多かった。

そのおかげで、同郷のアナウンサーの方から
ラジオの仕事を誘われることになるのである。

『新番組のADからだけどやってみない?』と。
 

契約ながらも、念願だった放送局の社員に!

その時すでに32歳になっていたが、
ある生放送のワイド番組のADとして採用され、
念願だった放送局の社員として働くことができるようになった。

契約社員ではあったけれど、
名刺も作っていただき、この上ない喜びだった。

かつて制作会社にいて自分の番組が放送されていたのも
同じこの放送局だったけれど、
生放送ではなく録音番組だったので、

毎週60分の完パケにして、
金曜日までに放送局に収めるという流れだった。

だからその完パケにした録音テープを局まで持っていく時、
あえて生放送をしているスタジオの前を通ったりして、

自分も直接このスタジオで仕事ができれば
どれほど嬉しいだろう?といつも思っていた。

その夢が大学も出ていない自分にできたということが、
信じられないくらい嬉しかったのを覚えている。

仕事が決まった日、
正面玄関から出て社屋を見上げて

『これからよろしく』とお願いをした。

アナウンサーという仕事でもないし、
30歳も余裕で過ぎてはいたけれど、
思いが強ければ夢は叶うものだと思った。
 

居場所もなければ、やることがない平日

担当する番組は週に1回なので、
それ以外の日は特にすることがなかった。

新聞を全紙見て、毎週オンエアするための
県内の話題をひとつ選んで電話取材をして原稿を書くことぐらいで、
そんな作業はあっという間に終わってしまう。

それに自分のデスクがあるわけではないので、
制作部の大机の一角を借りて作業をしていた。

この時代はまだパソコンも1人1台ではなかったし、
ガラケー、ポケベルの時代だったので
暇をつぶすものが全くなかった。

何もすることがないのに、大机にいるので
最初は『誰?この人』という視線がすこぶる痛かった。
 


でもなんとか1年、そんな状態でやり続けると、
翌年はもうひとつ別の番組を担当することになった。

それも3時間の生放送で、毎週わざわざ大阪から
タレントとディレクターと構成作家がやってきてくるという、
今までにはない方式の番組であった。
 


補足的に説明すると、
地方局のラジオ番組は基本的に
アナウンサーとディレクターが1人、
ミキサーと呼ばれる音響担当の人が1人、
それにアルバイトのADが1人、という体制がほとんど。

東京のキー局のようにディレクターが何人もいたり、
放送作家がいるようなことはあり得ない。
 


だから新しく担当が決まった番組は
この局でも新しい挑戦だったのだと思う。

また現役のお笑いタレントと番組ができるというのも
とても嬉しかった。

そのタレントは吉本興業のタレントだったので、
時々ゲストに仲の良い芸人さんや新喜劇の人も呼んだりして、
毎週仕事とは思えないくらい楽しい番組だった。

それに予算も大きくついていたので、
この番組に関しては地方局ではあり得ないギャラをもらうことができた。番組は3年ほど続くのだが、
その間はかなり金銭的に余裕ができ、
そんなこともあって分譲マンションまで買ったほどである。
(27年ローンだったけど)
 

けれど波乱万丈の人生は、この頃が始まりだったのである。

その4に続く

 

 

このMASAYAN公式ブログも、
サイトCMSで作っています

MASAYANがおすすめするサイポンでサイト制作しませんか?
\今なら、5ページまで無料!/