2021.08.19(木)に映画の大大大先輩であり、年の違う友人として親交を深めさせていただいた「千葉真一(ちば しんいち)」さんが、新型コロナウイルスによる肺炎のため逝去なさいました。
気持ちの整理がついてきましたので、想いを書きたいと思います。
大作家の大下英治さんから、澤くんのお誕生会をしてあげるよ。と嬉しいお誘いを頂戴いたしまして、ワクワクしながら会場に行きました。お誕生日会も中盤に差し掛かり、私が気合を入れた誕生日の決意のスピーチをさせていただいたときに、元幹部自衛官として、将来の夢や日本に対する想い、自衛隊を退職してまもないことなどを語らせていただいた。場の雰囲気も盛り上がり、私は周囲を見渡して席に着こうとすると、熱心に私の話を聞いてくださっていた眼光の鋭い方がいた。その時はまだ誰だか分からない状態でしたが、会場のあちこちに挨拶に行くと、その眼光鋭いお方は、その場の主賓としていらっしゃっていた千葉真一さんだったのです。近づくと、私を目に止めていただき、「澤さん、ぜひ、話の続きを聞かせてください。」と言われました。私は、びっくりしました。戦国自衛隊や、キルビルを初めハリウッドではJJ Sonny Chibaとして知られるレジェンドの千葉真一さんに名前をいきなり覚えていただいた上に、話を聞かせてくださいと言われたからです。話をしていくと、戦国自衛隊3の構想を得るためのヒントが沢山私のスピーチの中にあったということで、その場で携帯電話の番号を取り交わす仲になり、次回はチーフマネージャーの方も交えて、どこかで映画の話をしようということになりました。
そこからです仲良くしていただき、最終的には、ご自宅にも上げていただけるような関係になりました。
芝の料亭で自衛隊の話や、千葉さんの映画の話、戦国自衛隊3の構想について話をしたときは、会食2時間の予定が、会食そっちのけで、4時間以上盛り上がり、閉店間際まで、日本の未来や日本映画の未来について語り合いました。私が元自衛官でなければ、絶対わからないような話をすると、それはリアリティがある。絶対映画に入れよう!とか、こんなに詳しく兵器の話を聞いたことはない!とかで盛り上がり、「澤さん。ぜひ、演技指導、技術指導で関わってください。」と言われるだけでなく、最終的には、「澤さん。まあまあの役で是非出演してください。」と千葉さん本人から言われるくらい盛り上がりました。極め付けは、私が現役自衛官の友人や鎌倉時代の専門家である佐々木啓明さんから色々教えていただきながら、準備した戦国自衛隊3のシナリオ(プロット)を説明した時、「この筋は以前検討したことがあったが、やっぱり面白い。澤さん。ぜひプロデューサーに会ってください。」と言われた時でした。
千葉さんと私は、映画を愛する者同士、本当に少年のように盛り上がりながら、時間を共有していきました。千葉さん御用達の六本木の隠れ家焼肉や千葉さん以外の人がノックしてもシャッターが開かないお忍びのバーにも連れて行っていただき、日本映画の行く末や、どうやってハリウッド映画に日本の役者を送り込んでいくのかの想いを聞きながら私も色々とアイディアをシェアしていきました。ワイングラスのないところにワインを注いてしまうくらいに酔っ払って、タクシーで送っていただいたこともありました。
あるときは、映画への出資を依頼するために、色々な大社長のところに千葉さんが映画の魅力を語りにいく場に同席させていただいたこともありました。私も千葉さんの隣に座り、映画の魅力や日本文化の世界発信について千葉さんの援護射撃を行いましたが、時に思い通りにいかないこともあります。その後は、バーで一緒に反省会をしながらやや重い雰囲気の中で、あの時こういう風にしゃべればよかったとか話の持っていき方が・・など話し合いました。千葉さんがその映画作りに発揮されている持ち前の完璧主義をここでも存分に発揮して、自己嫌悪をする姿を目の当たりにしたこともありました。
千葉さんの影響力を拡大するためのコミュニティ運営を頼まれたこともあり、手始めに、しばらくやめていたFacebookを新たに開設するため、千葉さんから頼まれて、千葉さんの携帯電話からFacebookページを作成したこともありました。千葉さんの映画に対する熱い思いを気のままに発信するFacebookグループの構築を目論んでいましたが、千葉さんが「明確な理念を打ち立てる!それができてからやろう」ということで、千葉さんの熱い思いが入った動画はほとんど撮影できませんでしたが、今思えば、その思いを後世に伝えるために、無理にでも撮影しておいた方が、本当は千葉さんが喜んだのではないかなぁなんて思っています。
ある日、千葉さんから電話が入り、私はセミナーの途中でしたが、抜け出して電話に出ると、「澤さん!角川の社長と戦国自衛隊3について今話してきたけど、こじんまりとした低予算でやるよりも、澤さんの壮大なシナリオ(プロット)でやったほうが面白いんじゃない?って話になって、ひょっとしたら、澤さんのシナリオで動き出すかも!」という内容を聞き、お互い盛り上がったのがまるで昨日のように思い出されます。
普段は東京でお会いしていましたが、様々な不運と幸運の連続で、千葉さんの実家にも上げていただきました。「澤さーん。上がりなよ。」ベランダから普段着のラフな千葉さんが出てきて、私を呼び入れてくれました。玄関にはドドーーンと「武士道」の書、そして、鎧兜がお出迎え。室内プールを改造したトレーニングジムや、書斎、アトリエ、書道部屋、リビングなどを案内していただき、千葉さんお手製のモーニンングセットを2人でいただきながら、今書いていらっしゃるシナリオの見所やこれからどういう作品を世に出していこうかと千葉さんの監督・脚本家としての別名「和千永 倫道(わちなが りんどう)」としての顔にも時折触れました。千葉さんは、役者のとしての自分と製作者としての自分は今どっちなのかを明確に分けたい。だから別名でやっているんだ。といつも話してくれました。深く役に入り込む自分と、作品を客観的に俯瞰している自分を切り替えなければ、どちらも不完全だという考えを私に教えてくれました。
千葉さんはいつも、「作品の良し悪しは脚本で決まってしまう。ハリウッド映画のように、脚本に1億円以上かけて作品を練磨したい。」と言っていました。そのような千葉さんの想いに、日本映画を世界に届けるという千葉さんの想いに私は共感し、「いつかそんな大きなお金で千葉さんを支援し、日本から世界に発信する。」そんな夢が自分のビジョンになっていきました。私は、その日の予定を全部すっ飛ばして、千葉さんの想いを、映画や世界や、千葉さんの子供たちに対する思いを延々を聞き続けました。
千葉さんが、「僕はここからの景色が好きで、今日は特に富士山がよく見える。」と言いながら、普段は一人で楽しんでいるお気に入りの場所にわざわざテーブルをもう一つ持ってきて、私のために一番いい場所を作ってくださり、ジュースをついでくれました。「この家のここを改築して、みんなでバーベキューができるベランダを作るんだ。そうしたら澤さんも来てよ。」まだまだ未来に対する想いがいっぱい。その後も、千葉さんの中からはあらゆる言葉が溢れ続け、とても80歳を過ぎているとは思えない思考、アイディア、リーダーとしてのビジョンが咲き乱れた。私も元国家公務員、元幹部自衛官、科学技術関係者、日本を世界に発信する男として、言葉で応酬し楽しい時間が流れていったのです。この時、六本木の交差点での出来事を思い出していました。千葉さんと食事をした後に、六本木の街を歩いている時、千葉さんの後ろを歩いていた岡田さんと私は、「とても80歳を超えた方の歩き方とは思えない、整った『そう。武術家としての歩き方』ですね。」と話しながら、その姿勢の良さに感動した時のことを。
私との会話で千葉さんの想いがどんどん引き出されたのか、話疲れる様子もなく元気に、むしろ脳内麻薬が出っ放しで気付けば、もう5時間ほど経とうとしていましたが、溢れ出す言葉に終わりはありません。中でも、子供たちへの愛は深く、私も3人の子供がいるので、こんな親として生きていこうと想いを新たにするのでした。千葉さんのサービス精神は旺盛で、トレーニングジムで、木刀を使った素振りの稽古や模造刀を使った稽古、ゴムチューブを使った筋肉トレーニングを見せてくださり、私も体験。「弟子たちとここで汗を流すんだ。そしてお腹が空いたらみんなでご飯を食べる。」と嬉しそうに私に教えてくれました。
最後は、1階にある千葉さんの歴史を物語る数々のお宝が展示され、一部はまだ構築中の博物館(展示場)を色々見せてくださった。多くは子供たちとの思い出の品々が並ぶ人間味あふれるスペースで、「この本は息子が読んでいた。このおもちゃはなんとなく捨てられない。」などの解説をしながら、本当に子供たちを昔も今も愛している様子が伝わってきました。2021年7月20日発売の週刊女性8/3号にも千葉さんの独占インタビュー記事が掲載され「息子は、俺を超えた。悔しくもうれしい」と残しています。
そんな人間味に溢れる大俳優の千葉真一さん。約1週間前、マネージャーの方に連絡をしたとき、千葉さんが、コロナで入院しておりだいぶ大変だとということ、しばらく電話には出られないということを聞きました。え?と思いましたが、私は思ったことが現実になる力が強いので、何も考えないようにしました。そして、自分の口から誰に言う話でもないと決めました。
しかし、ニュースが出て、千葉さんが亡くなったことを知りました。一瞬ショックを受けましたが、瞑想して様々なことを考えました。生きることについて、改めて私の使命や周りの人に喜んでもらえる価値について。私の母が十数年前に癌で逝った時もつくづく思いましたが、「あの世には何も持っていけない。」「やりたいと思ってももうできない時が来る。」「有限の時間の中で何のために生きていくのか。」このような想いがやはり出てきました。千葉さんの映画への想いを語る動画を撮っておけば・・あの時喋っていた子供さんたちへの想いを撮影していれば・・ 千葉さんの映画を具現化できるだけの力を私が現時点で持っていれば・・ !!!後悔なんでしないと思っていた私がやっていたのは、やはり後悔でした。
本当に大切に思っている想いは、伝えなければならない!「日伝(日本映像文化伝導財団)」も日本文化を継承し、伝え、海外に進出させ、発展させていくものとして、千葉さんは理事長を務めて、伝えようとしていた。そうだ。今、想っていることを、伝えなければいけないんだ。まず、発信する努力をするべきなんだ。瞑想をしながら、千葉さんのいのちを身近に感じて、自分がなぜこの時代にこの経験をするように使わされたのか、使命を感じ、千葉さんの逝去をどう捉えて、どう生かすのか。これらの出来事と自分の運命にどういった関係、意味、必然があるのか。これらについて巡らせた。
千葉さんの冥福を祈り、千葉さんの想いの一部を現世に具現化できるように、継承し、伝え、海外に進出させ、発展させていく。そのために、人から何と思われても、自分の言葉で自分の表現で、自分が大切だと思ったこと、自分が伝えたいことを誰に遠慮することもなく伝えていく。チャンスは今だけかもしれない。次と言っていたらもう二度と会えないかもしれない。
つまり、愛は急げ。未来を今生きる。そう決めた。千葉さんと今なお心を通わせていられる気がします。
2021.08.22 澤繁実拝
(千葉さんはいつも、私にメールをくれる時に、千葉真一拝と書いてくださっていました。)
千葉真一さんとの写真