良い思い出も人生の重荷になる時が来る。
2021/12/02
良い思い出ばかりに、浸ってられない。
人は、いまここ、中今に存在して、生きることしかできない。
祓いに始まり、祓いに終わる。
過去も未来も無く、今ここから始めていく。
有るものは破壊され無くなり、
無いものは創造されて有るようになる。
諸行無常。
アッサリ書きました。
でも、痛烈に残酷な現実を突きつけられているのです。
それが、真実なので、仕方のないことです。
人の持つ記憶。
人が今ここから歩み、対応する為に、必要なものである。
経験、学び、知恵といった情報を記憶して、使っていく。
真実に立ち向かうための武器でもある。
けれど、人は、心があり、その動きが感情として現われる。
行動して、学習して、経験して、発生する心の動きに、
比例して、感情が生まれる。
これは、人である以上、必須の機能なのである。
その感情に伴い、付加価値的に情報が追加され、
それが、良い記憶、悪い記憶と区別される。
また、価値観も形成され、
常識といった偏見のコレクションのヴェールが重なる。
そうして見る記憶は、バイアスのかかった、幻想となる。
現実は、痛く厳しく過酷なものという思いがあるほど、
人は、現実逃避するし、
良い思い出と言った記憶に依存的になり、
自分に都合の良い解釈のストーリーである
幻想の中を生きようとしている。
とはいえ、その事には、善いも悪いも無いのである。
また、自分独自の内的環境だけでなく、
自分を取り巻く外的環境から情報を受けている為、
気づかない所で、意図された幻想を現実と錯覚させる
ということもあります。
幻想に生きること、
それが、社会生活、自分の現実に問題がないなら、
そのままで良いとも言えるけれど、
純粋に自分のパフォーマンスを発揮する時は、
障害になっていることが多い。
それに気づかれないよう、幻想も動いているし、
自我も心地よい状況を維持する為に、幻想を採用しやすい。
現実を見ろ、と強く言われても、
なかなか現実を直視できない。
そういう障害になっていることもある。
こういうことは、悪い幻想の時に判明しやすい、
また、悪い幻想を手放そうと必死になるから、
無事であったり、まだマシな現実を採用しようとして、
幻想は、手放され、消滅するのである。
さて、問題は、良い思い出という幻想なのである。
これは、現実が厳しく、現実逃避した先が、
良い思い出の幻想だから、それに依存し、しがみつき、
中毒になり、手放そうとはしない。
JUJU 『Hello, Again~昔からある場所~ (Ballad Ver.)』
のミュージックビデオにあるように、
昔の彼女は、妻になり、若く綺麗だった。
という過去の記憶という幻想を見ながら、
現実の病と闘っている妻を見て、
悲しみに打ちひしがれているわけである。
ではなく、闘病中でも、残された時間を大切にして生きる。
その悲しい現実の裏にある、大切に生きている時間の記憶に、
フォーカスして、現実を受け止めて生きていく。
そうすれば、しっかり生きた。
という事実とともに、後悔も未練も無く、
失った悲しみは癒されるのである。
良い思い出が、幻想となり、現実を見ようとしなくなる。
そして、良い思い出に浸っている時間が、
現実で本当にしなければならないことを阻害している。
現実は、刻々と今ここを刻んで先に進む。
現実を受け入れ、現実でしなければならないことに取り組む。
この場合なら、
闘病中の妻との残された時間を大切に生きること。
話したいこと、やりたいことを存分に。
この時に、良い思い出を振り返りながら、
会話に花を咲かせるのは、良いだろう。
また、自分の人生を終える時に、
良い思い出を振り返れば良いのである。
このように、
直面する現実やその現実の問題に遭遇し、
現実逃避したくなる場合であったり、
悪い幻想を手放したかったり、
善い幻想、良い思い出に縛られて、現実に生きられず、
社会生活や現実に支障をきたしている場合など。
視点をニュートラルにし、バランスの取れた思考で、
現実の問題に立ち向かえるようにととのえるのが、
なみのりふね名古屋いまいけのセッションです。
良い思い出だけど、それに縛られて生きている。
なら、解放して、本当の自分となって現実を生きるのです。
そのために、
なみのりふね名古屋いまいけは、存在しています。
なみのりふね名古屋いまいけ
施設長 森